Kyoto Seika University, founded with the founding spirit of 'Respect for Human Beings' and 'Freedom and Autonomy,' continues to walk as a pioneer in manga art and design education. On the lush campus of the ancient capital Kyoto, diverse fields of expression such as manga, contemporary art, design, and popular culture coexist, creating creative dialogues that transcend genres every day. Behind the continuous production of artists who do not fit into the existing market, such as Katsuki Tanaka, the creator of "Koppu no Fuchiko," is a unique educational environment that respects student freedom and autonomy. At the beginning of this feature, we feature a special interview with Katsuki Tanaka, who studied at the school and continues to explore the possibilities of manga expression. We will unravel the "essence of expression," which has been questioned across generations, from the perspective of Kyoto Seika University.

INDEX

01. Special Interview|タナカカツキ様(1989年 京都精華大学 卒業)

面白い遊びはシェアしたい。そして、みんなでやるともっと楽しい。
マンガ家・タナカカツキさんの「創作の原点は、トキワ荘の先人たち」

マンガ家としての活動を悠々と超えて、ナンセンスでシュールな笑いを視覚化したり、カプセルトイで日本のサブカルチャー史に残る大ヒットを記録したり、空前のサウナブームの火付け役となったタナカカツキ氏。

編集者の言うがままにマンガを描くのではなく、自身が興味を持ったもの・ことに対して積極的に体験し、それをデザインし、その事象の価値観をアップデートしながら世に問うタナカ氏のチカラの源泉は何か。さらに、京都の魅力や“美大で学ぶこと”についてもお伺いしました。

振り返ると、マンガについての大切なことは全部母親に教わりました

———タナカさんはどんな少年でしたか?

昭和生まれの子供ですから、夢中になるのは漫画や野球でした。少年漫画誌『少年サンデー』は毎週買って読んでいましたが、特定の作品が好きというより、“漫画を描く人”に憧れていました。小学1年にはオリジナルの4コマ漫画を描いていて、「漫画だけ描いて生きていく方法がある=プロ」という存在があることを母親に教えてもらい、8歳には「プロのマンガ家になりたい」と母親に相談していました。

マンガとバンド活動と劇団で、超多忙な大学生活から、卒業後は東京へ

ーー生まれた大阪から大学がある京都に移り住んでいかがでしたか?

京都はちょっと歩くと神社仏閣がたくさんありますよね。そういう環境で過ごすうちに美術について考えるきっかけを与えてくれて、今でも自分の中で見えない財産になっています。これが東京の都市生活だったら、多分味わえなかった感覚でしょう。

大学時代はマンガも描いていましたが、当時漫画1本描けばサラリーマンの月給ぐらいにはなったので、バンド活動や劇団に夢中になって、卒業後はミュージシャンか役者になるのが本命でした。バンドは21個ほど掛け持ちしていて、ボーカル以外は全部やりましたね。あの頃はアナログシンセサイザーが個人で買えるような価格になった時代で、その音色に夢中になり、アレンジャー(編曲家)か音楽プロデューサーを目指していました。役者も鴻上尚史さんや野田秀樹さんのお芝居にすごく憧れていましたが、「音楽も演劇も一人前になるには時間がかかるから、若いうちはマンガで食べていこう」と考えていました。

ーー夢がある一方で、頭の中では冷静に計算されていたんですね。

当時の美大生は、出席しなくても課題だけ提出していたらなんとかなるみたいな意識があって、自分は大学3年の頃には京都と東京を行き来していました。1989年(昭和64年・平成元年)に講談社の青年コミック誌『週刊モーニング』で再デビュー。『逆光の頃』という作品で連載を始めました。

 

ーーバンドをやって、役者もやりながら、マンガもちゃんと描いていた。

当時の『週刊モーニング』は、アバンギャルドで一風変わった作品の受け皿のようなマンガ誌で、自分の作品を発表する場所としては非常に良かった。担当編集者も20代で自分と価値観が近くて、話をしても盛り上がるし、一緒にライブに行ったりして遊んでいました。とても居心地が良くて、「出版社に就職した」(笑)ぐらいの感覚でしたね。

映画化もされた『逆光の頃』は、京都を舞台に、将来への漠然とした不安や性への興味など思春期特有の少年たちの心情を描いた短編連作集で、京都に住んでなかったら、多分描けなかったと思います。そういう意味でも、京都に4年間住んだことはとても大きい経験でした。

-京都精華大学を卒業して、就職活動は?

大学は4年間で卒業しましたが、当時、フリーターという言葉が市民権を得た時代で、正社員ではなく、自由に生きていくような風潮がありました。ちょうどバブル期で、熱気もあって、自分も時代も浮かれていたような気がします。就職活動はしなかったのですが、東京でマンガを描きながら、役者もバンド活動もしながら、25歳のときに巡り合ったのがフジテレビのバラエティ番組『笑っていいとも!』の構成ブレーンのアルバイトです。

ーー当時の『笑っていいとも!』はお昼のおばけ番組でした。

番組会議にも参加して、いかに視聴率を上げながら、面白い番組を作りながら、大衆に分かってもらうか、スポンサーの商品を売っていく仕掛けやマーケットの作り方など、「一つのアイデアでいかに市場を作っていくか」というのを目の当たりにしました。構成作家の先輩は、「面白すぎちゃいけないよ、難しいことは通じないよ、難しいことを噛み砕いて言葉化していくと市場ができていくよ」と教えてくれました。

マンガ家は、自分の作品のことを第一に考えると思いますが、私は作品自体にはそれほど執着がないのかもしれません。あるのは、「世の中がこうなればいいのに」という思いが先で、そういう意味ではテレビに関わっていたことは大きかったですね。

 

自分が「これは面白い」と興味を持たないと、やっぱり筆は進みません

ーー大衆の欲望をどうコントロールするか、テレビから教わったということですね。

マンガに限らず、クリエイティブの世界は、「今、これが流行っているから、こういう路線で……」というものづくりが多く見受けられますが、自分はそういうことが昔からすごく苦手です。世の中にマーケットがないようなテーマに取り憑かれることが多くて、それは“当たるも八卦当たらぬも八卦”のような世界ですが、興味があるテーマに出合ったら、まず一度紐解いて、資料を集めて勉強して、次に体験します。そして、マンガを描くのは大変でしんどい作業ですが、大量に描いていきます。

 

ーーお話だけだと孤独な作業のように感じますが、好きなことだから続けられる。

今、自分が資料を集めて、体験して、掘っているのは『水草水槽』※です。園芸って大変ですよね。とはいえ、植物のある生活はとても心地良い。そこで、水槽の中で草を育てるんです。水槽の中に生態系を作るのが面白くて、ずっと取り組んでいます。

自分が子供の頃に、マンガを超えて、アニメや特撮などにも意欲的に取り組んだトキワ荘の先輩たちの「マンガ表現というマーケットそのものを作っていく」実験に憧れを抱いて、大人になってテレビの構成作家として、大衆に分かるクリエイティブに触れて、自分のマンガの理想は“開拓者”なんだと思います。マーケットがないことをやるのがマンガ家で、市場はあとからついてくる。トキワ荘の先人たちのように、「自分で題材を見つけて、切り開いて、振り返ったらマーケットができていて、人が騒いでいる」という、世の中にないことを最初にやる人たちに憧れます。

 

ーー具体的にタナカさんの創作術を教えてください。

例えば『サ道』なら、「サウナについての話を描いてください」なんて出版社から依頼は来ないので、サウナのことを徹底的に調べて、全国のサウナに入りまくります。そして描いていくという“一人千本ノック”のようなことを同時並行でいろいろやります。依頼はないので、自主トレ(笑)ですね。スポーツ選手のようにメニュー表を作り、目標を立て、メニューを淡々とこなしていくという感じで、描いてアウトプットしていくうちに誰かの目に止まり、声がかかる。それは『オッス!トン子ちゃん』の頃からそうで、自分のすべての作品は自費出版からのスタートです。

創作の息吹きのようなものに触れることができるのが、美大で学ぶ価値

ーーさて、ご自身も通った美大で学べることは何でしょうか。

自分が大学に通っていた頃は、大学は社会人になるためのステップアップに繋がることが大きな意味を持っていましたが、今は社会情勢も含めて時代が大きく変わって、勉強は個人でもできるし、SNSで発信できるし、そもそもセンスなんて教えられるものでもないし、大学が目標を与えてくれたり、ミッションを与えてくれるわけでもありません。では、なぜ美大に行くのか。

学校には自分と同じような年齢なのに、めちゃくちゃ絵が上手かったり、丁寧に作品を仕上げたり、どこか変わっていたり、実社会では難しそうな人だったり、そういう人が集まっていて、それが価値になるというか、「そこに行けば、創作の息吹に触れられる」、「なんか少し認められている気がする」というのがとても大事です。

 

ーーなるほど。特に美大はそういう傾向が強いと思います。

自分もマンガを描いているとき、孤独に一人で描いているのも好きですが、マンガは出版社との共同作業なので、担当編集者とはたくさん話しをして、共有して、できるだけ楽しい時間を過ごそうとしています。だから、「マンガ家で成功するには?」と聞かれたら、「人付き合い」と答えますね。結局、人は、共同社会にエントリーして初めて仕事に結びつきます。だから、マンガ家のなり方は教えられませんが、学校では人との付き合い方=人と人との読解力・距離感を学んでください。

 

ーー発想や表現は一人でもできるが、世界を広げるには「人」が不可欠だと。

大学を起点にして、いろんな人との出会いがあり、スマホやパソコンの情報とはちょっと違う、普通の人間のエネルギーみたいなものに触れる「身体感覚」を掴むことが大事だと思います。特に美大生は、表現が好きな人たちなので、“遊びの原点としての表現”にこだわって、徐々に自分のイメージのものが作れるとか、スキルを磨くのも楽しいと思います。

深刻に考えることなく、ご機嫌に遊んで、健康的に楽しくというのが人生の醍醐味。創作をする時間というのは本当に楽しいものです。

 

 

「自分は漫画家ではなく、マンガ家」というタナカ氏。“漫画”は、学術的にいうと岡本一平氏(岡本太郎の父親)の時代の政治家の似顔絵や風刺画を指し、“マンガ”は手塚治虫以降のマンガの描き方を指すもので、「手塚以前の漢字の漫画は当てはまらない」と言います。「自分は手塚先生以降のマンガの描き方をしているので、それを正しく使っていこうと思っています」というタナカ氏はまさに“アトムの子”。「世の中にマーケットのないことをやるのがマンガ家で、私の目指すマンガ道は開拓者なんです」と、マンガの枠を超えた“面白い・楽しい・心地良い”の伝道師でもあります。

 

【タナカカツキ氏プロフィール】

1966年大阪府東大阪市生まれ。1985年小学館『週刊ビックコミックスピリッツ』誌で新人漫画賞受賞、マンガ家デビュー。京都精華大学美術学部ビジュアルデザイン科在籍中に、講談社『週刊モーニング』誌で新人漫画賞受賞。1989年同科を卒業。
著書に『オッス!トン子ちゃん』『サ道』、天久聖一氏との共著『バカドリル』などがある。さらに、カプセルトイ「コップのフチ子」の企画原案、サウナ特化型施設「渋谷SAUNAS」のプロデュースなど、マンガ家の枠組みには収まりきらない多才さと、独自の美意識に貫かれている。現在、京都精華大学デザイン学部客員教授として、デジタルクリエイションコースでメディアアートなどを教えている。

02. 建学の理念「人間尊重」「自由自治」

大学の歴史と原点

1968年に短期大学として開学し、1979年に4年制大学へ移行。以来、常に新しい学問領域の開拓を続けてきた京都精華大学は、2026年に創立58周年を迎えます。

京都精華大学は、1968年に英語英文科と美術科を擁する定員150名の小さな短期大学として誕生しました。設立者であり初代学長の岡本清一が提示した「教育の基本方針に関する覚書」には、大学の建学の理念とも言える「人間尊重」「自由自治」がうたわれています。

この覚書は、日本国憲法および教育基本法を貫き、世界人権宣言の背骨をなす精神に基づき、特定の宗教教育は行わずながら、各宗教の求めてきた真理と人間への誠実と愛の精神を尊重することを掲げています。また、学生の自由と自治を尊重し、学生自身も学内の秩序と環境維持に責任を持つという、教職員と学生が人格的に平等である大学運営のあり方を示しました。

1979年に4年制大学へ移行して以来、本学は順次学部を開設し、学問の領域を開拓し続けてきました。1989年に人文学部(当時は国際文化学部の前身)、2006年にデザイン学部・マンガ学部、2013年にポピュラーカルチャー学部、2021年に国際文化学部・メディア表現学部を開設。そして2026年には国際文化学部を人文学部へ改組し、マンガ学部にキャラクターデザイン学科を開設するなど、常に時代のニーズに応えながら進化し続けています。

 

建学の理念「人間尊重」「自由自治」

初代学長・岡本清一の提示した理念は、今も教職員と学生に息づいています。

京都精華大学の建学の理念である「人間尊重」「自由自治」は、初代学長の岡本清一が学長就任の条件として提示したものです。この理念は大学の基盤となり、新しい人類史の展開に責任を持ち、世界に貢献する人材の育成を使命としています。

現在、大学は建学当初に岡本が描いた「大きな理想と使命」を追求するために、「表現」「リベラルアーツ」「グローバル」を教育・研究の軸として掲げています。

また、2024年には10年後の2034年に向けた長期目標「VISION 2034 SEIKA」を策定。建学の理念である「人間尊重」「自由自治」を基盤に、「表現の大学」「リベラルアーツの大学」「京都と世界をつなぐ大学」「不断の教育革新と組織基盤の強化」を掲げ、社会の変化に応えながら「学問と芸術で世界に貢献する人間の育成」を目指しています。

 

京都国際マンガミュージアムを運営し、マンガ文化の研究・発信の中心地として世界から注目されています。

京都精華大学は、2006年に京都市と共同で京都国際マンガミュージアムを開設しました。これは京都市と共同運営する日本初のマンガミュージアムであり、いまや世界から注目されているマンガ資料の収集・保管・公開と、マンガ文化に関する調査研究、国際交流の拠点となっています。

京都国際マンガミュージアムは、日本国内の資料以外に世界各国の日本マンガの現地版や日本以外の国のマンガが書庫に3万冊以上収蔵されており、世界各国から研究者やファンが訪れる国際的な施設となっています。

また、大学院にはマンガ研究科を設置し、日本初のマンガ研究科として、漫画家や漫画研究者の養成を行っています。本学は常にマンガ教育・研究のトップランナーとして走り続けています。

 

「人間尊重」「自由自治」を基盤に、表現で世界を変える人を育てる京都精華大学。

初代学長・岡本清一が提示した「人間尊重」「自由自治」という建学の理念を今も受け継ぎながら、京都精華大学は「表現で世界を変える人を育てる」ことを使命としています。

1968年の開学以来、常に新しい学問領域の開拓を続け、現在は5つの学部と大学院を有する総合芸術大学へと発展。特に、日本で唯一のマンガ学部を設置し、京都国際マンガミュージアムを運営することで、マンガ文化の研究・発信の中心地として世界から注目されています。

広大なキャンパスと充実した設備、第一線で活躍する教員陣、そして産学連携による実践的な教育。これらを通じて、現代美術、アニメーション、ゲーム、マンガ、デザインなど、さまざまな分野で活躍できるクリエイターを輩出し続けています。

「表現で世界を変える」。この言葉には、自分の考えを形にし、他者に伝えることで社会や自分に変革をもたらすという、クリエイターにとっての大きな可能性が込められています。京都精華大学は、その可能性を最大限に引き出す環境を提供し、次世代のクリエイターを育成し続けています。

 

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