—幼少期はどのようなお子さんでしたか。
「小さいころから、自分の世界に浸るのが好きな子どもでした。母が読んでくれたたくさんの絵本は、私の想像力を大きく刺激しました。幼稚園のころには、クレヨンで描いた絵に自分なりの物語をつけて遊んでいたのを覚えています。」
—初めて「作品」と呼べるものを作ったのは、どんな時でしたか。
「小学校の美術の授業で描いた牛の絵がコンクールに入選した時です。画材は水彩絵の具だったのですが、あえて水を使わず、絵具を激しいタッチで厚塗りしました。当時から敬愛していた画家のゴッホの影響です。そうして自分なりに工夫して描いた絵が周囲から評価されたことが、大きな自信につながりました。」
—早くから才能を感じさせるエピソードですね。その経験が、美術の道を志すきっかけになったのでしょうか。
「そうですね。ただ、好きなのは絵を描くことだけではありませんでした。他にもやりたいことはありましたが、進路を真剣に考える中で、自分はルールに縛られたり強いプレッシャーを受けたりする環境が苦手だと気づいたんです。そこで一番自信があり、一番自由でいられると思えたのが、美術の道でした。」
—進学先の武蔵野美術大学では、どのような学びがありましたか。
「一言で言えば、人体研究に捧げた4年間でした。もともと静物画は得意でしたが、人物画はむしろ苦手で、大学受験の課題をパスしてもなお、そのコンプレックスは拭えませんでした。どうしても克服したいという思いから、徹底的に取り組みました。学んでいくうちに、人体は“肌の色の使い方”と“プロポーション”を誤ると描けないことに気づきました。古典的な西洋絵画技法である卵テンペラに出会ったのも、肌の色表現を探求する中で自然に行き着いた結果でした。」
—物事を突き詰める姿勢が伝わります。大学卒業後はニューヨークのThe Art Students League of New Yorkに留学されていますね。その目的や得られたものを教えてください。
「油絵は西洋の絵画ですから、本場で学びたいという思いがありました。友人と複数の国を巡り美術大学を見学する中で、最後に立ち寄ったアメリカでThe Art Students Leagueを見つけ、その開かれた教育環境に感銘を受けて入学を決めました。卵テンペラの優れた先生にも出会い、最終的にはその先生のアシスタントを務めることもできました。驚きだったのは、アメリカでは美術解剖学を教えられる先生が豊富で、10人に1人の割合で指導を受けられる環境があったことです。日本と比べても格段に充実していて、人体画の知識と技術にますます自信を持てるようになりました。」
—その後、職業画家として歩む決心をされたのはどんな経緯からですか。
「卒業後はアメリカでアニメーションフィギュア制作の会社に勤めていましたが、1年ほどで辞めました。そこで気づいたのは、私は誰かの依頼に応えるのではなく、自分のアイデアを形にすることを望んでいる、ということでした。会社を辞めた後は画材店でアルバイトをしながら制作に専念し、定期的に展覧会を開く生活へと切り替えました。」