田中宏明

Tanaka Hiroaki

中学生の頃から絵の道を志しながらも、自分が本当に描きたいものを見つけられずにいた。大学での葛藤、国宝模写に費やした15年、そしてコロナ禍のなかで出会った海の輝き。現在、無数の光の粒で海を描き続ける日本画家・田中宏明氏に、その歩みを伺いました。

プロフィール

日本画家
1966年、愛知県生まれ。1993年、愛知県立芸術大学大学院 美術研究科美術専攻日本画領域修了。1993年~2008年、愛知県立芸術大学 国宝模写制作参加。2012年に公益財団法人日本美術院、第68回春の院展、再興第97回院展に初入選し、2015年に日本美術院院友に推挙。 以降毎年出展。繊細で細密な描写で、常に新しい表現や技法に取り組む。

15年の国宝模写を経て、自分だけの光を見つけるまで

“絵の道に進むことは、いつ頃決められたのでしょうか?”

本格的に考え始めたのは中学生の頃ですね。親の話によると、当時は「高校へ行かずに絵の修業をしたい」と言っていたらしいです。ただ、今のような日本画家になりたいというわけではなく、漫画家になりたいとか、アニメーションの仕事をしたいとか、そんな憧れを抱いていた感じでした。高校は普通科へ進みました、やっぱり絵を描きたい気持ちは変わらず、美大や芸大を目指すための予備校である美術研究所へ通うようになりました。最初は私立美大に進めたらいいかなと思っていたのですが、研究所の先生から「がんばれば国公立の美大も目指せる」とアドバイスをされ、そこから本気になりました。

“日本画を選んだ理由は何だったのでしょう?”

実は、日本画に強い憧れがあったわけではないのです。彫刻は苦手でしたし、油絵は絵具の匂いが苦手だったし、親からも「油絵はやめてほしい」と言われていました。デザインも発想力が必要だし、自分には向いていない気がして。そうやってひとつずつ消去していって残ったのが日本画でした。当時は「日本画って何だろう?」というレベルでした。

「自分は何を描きたいのか」が分からなかった学生時代

“愛知県立芸術大学での学生生活は順調でしたか?”

課題が出ているうちは順調でした。風景を描きなさい、人物を描きなさいというテーマが与えられるので、それに応えていけばいいのですから。でも卒業制作の時に初めて壁にぶつかりました。「自分は何を描きたいのか」がわからなくて、魚も、人物も描いた。いいなと思って描いていても、本当に心から思っていないから、筆が入らなくなってしまって。 与えられたテーマに応えられるので、古典絵画研究室に入りました。今思えば、模写に逃げた部分もあったかもしれません。

愛知県立芸術大学 法隆寺金堂壁画模写展示館

“国宝の模写のお仕事は、なかなか珍しいと思うのですが、どのような経緯でその道に進まれたのですか?”

浪人時代、愛知県立芸術大学がおこなっている文化財修復や保存修復の存在を知りました。ちょうど岩絵具の美しさに惹かれ始めていた時期でもあったので、「国宝の修復や保存修復など、国宝に関わる仕事をしてみたい」とぼんやり思っていました。大学院を修了して、そのまま研修科に進もうと考えていたのですが、不合格になってしまって。ちょうどその発表の日に大学の先生方と飲んでいて、「国宝の模写に興味はあるか?あるなら推薦をしてあげよう」とお話をいただいたのがきっかけです。

“文化財を後世へ伝えるための重要なお仕事ですね”

念願でしたし、夢が叶ったなと思いました。

“具体的には、どのような国宝を模写されたのですか?”

西大寺の十二天のうち、月天(がってん)・焰摩天(えんまてん)・伊舎那天(いしゃなてん)。京都・神護寺の伝 平重盛像と釈迦如来像。東大寺の倶舎曼荼羅図(くしゃまんだら)。そして法華寺の阿弥陀像です。

“模写の面白さはどんなところにあるのでしょう?”

国宝は、国にとっての宝物です。それを自分の手で写して後世に残していくという仕事に携われたのは、やはり誇りだし勉強になりました。ただ、やはり大変でしたね。3年かけて1枚を仕上げるなど、国宝模写はとにかく時間がかかりました。技術も学びましたが、精神的な部分も成長したと思います。若い頃は早く結果を出したかったので、仕事も粗かった。でも、国宝模写は完成までのプロセスが全く違う。家で例えると基礎工事をしているような感じで、どんな立派な家でも基礎がなかったら建ちません。僕はその基礎工事が弱かったのだと気が付きました。

法隆寺金堂壁画 阿弥陀浄土図 模写

“国宝模写のお仕事をすることで、基礎の大切さを改めて実感されたのですね。このことは、後の作家活動にも繋がっていますか?”

繋がっていますね。院展に入選するようになった頃、先輩から「お前は何が変わったんだ」って聞かれて、僕は「我慢することを覚えました」と答えました。慌てて描かず、完成に向けて我慢を重ね、焦らず、積み重ねていく。15年の国宝模写を通して学んだことは、自分の中で宝物のようにずっと心の中にあります。

「先生は何をしている人?」
作家としての自分を問い直した瞬間

“国宝模写の仕事を離れた後は、すぐに今のような作家活動へ移行されたのでしょうか”

いや、そんなことはなかったですね。一年目は仕事もあまりなく、二年目から地元の中学校で美術の講師のお話をいただいて、それで教壇に立つようになりました。幼稚園で絵を教えていましたし、収入がなくなったわけでもないけれど、作家として何か確立していたわけでもなかった。院展も少し離れていましたし、小さな展覧会に出してみて、「売れたらいいな」くらいの感じで小綺麗な絵を描いていた時期でしたね。そんなとき、中学校の生徒から聞かれたんです。「田中先生って何をしている人ですか?」って。

“ハッとさせられる質問ですね”

「何をしている人?」という質問に対する答えに、結構困ったんですよね。絵は描いているけれど、それ以外に何もないなって。自分では画家のつもりでいるけれど、「何を描いている人ですか?」って聞かれた時に答えられなくて、自分にはまだ作家としての看板がないことを実感させられました。「私はこういう絵を描いています」ものがなかった。生徒は何気なく聞いたと思うのですが、今振り返ると、あの質問は大きかったですね。

“そこから作品にも変化が生まれたのでしょうか。”

そうですね。その頃に何気なく描いた花鳥風月の作品がポンと入選して、入選した作品が今度は自分の研究テーマみたいになるんです。「じゃあ自分はこういう方向なのかな」と、水辺の鳥の絵を描くようになりましたが、途中でしんどくなって、ずっと描き続けるのは無理だなと。

“え!?それはなぜだったのでしょう。”

飽きてしまったんですよね。描く時は一生懸命描いているんですよ。でも展覧会などに出して返ってきた作品を見るとスカスカで中身がない、鳥を上手に描きました、という感じで。技術的な問題ではなく、気持ちが入っていないから審査員にも見抜かれて落選が続いて。そこからまたテーマ探しの暗黒時代が始まりました。結局二年くらいは悩んだはずです。

「寂然」
作:田中宏明

その場の空気や気持ちを大切に、キラキラとした海の光を描く

“現在、精力的に描かれている海のシリーズはどこから生まれたのでしょう?”

コロナの頃ですね。世の中全体が落ち込んでいたときに、海を見たんです。そうしたら、なんだか元気が出て、幸せな気持ちになりました。その後もウクライナで戦争が始まるなど、世界的に暗いニュースが増えているときに海を見たら、温かい気持ちになれたし、希望が持てるような気になって「ああ、これ描きたいなぁ」と思えたんです。

“面の光の表現がとても印象的ですが、あの輝きはどのように生まれるのでしょうか”

海を見ていて一番きれいだなと思うのは、やっぱり光。波そのものというより、光が反射してキラキラしているところをどうやって描くかをずっと考えています。海ではなく、光そのものを描く感覚でしょうか。同じ海でも光の入り方や波も毎回違うので、その場で感じた空気とか、その時に感じだ「きれいだな」という自分の気持ちを残すようにしています。これらの絵は、全て点描なので「大変ですね」と言っていただくことも多いのですが、 昔から細かい作業は嫌いではなくて。本当はベタッと塗ることもできるし、その方が早いのですが、それだと光にはならない。輝いているように見えない。だから少しずつ点を重ねていくのですが、そうすると光が浮いてくるんです。

“光を描くために点描が必要だったのですね”

違う描き方も試しましたが、このやり方が一番自分の見ている光に近かったんです。 描いて、消して、また描いて、それを何回も繰り返して深みを出していく。表面だけキラキラしていてもダメです。奥行きや、水の中から光が出てくるような感じが欲しくて、何層も重ねています。国宝模写で学んだように、早く完成させようとするとだいたい失敗しますし、今は焦らず、ひとつひとつ積み重ねていくしかありません。

“海の光は、今後も描き続けていくテーマになりそうですか。”

そうですね。海を描いているようで、実は毎回違うものを描いている感覚なので、終わりがない。鳥のときは飽きちゃいましたが、海はまだ大丈夫。見るたびに発見がありますから、もうしばらく描き続けるのではないかなと思っています。

「光る海」
作:田中宏明

「煌く海」
作:田中宏明

15年に及ぶ国宝模写で培われた確かな技術と、対象をじっくりと見つめる精神力。それらが結実し、田中氏の描く「海」は唯一無二の輝きを放っています。
焦らず、一つひとつの点を重ねていく——。途方もない時間と情熱が込められたその光には、写真や言葉だけでは伝えきれない奥行きと感動があります。息を呑むほど美しい光の世界を、ぜひアーティストページでじっくりとご鑑賞ください。