「彼岸の雫」
第76回日本美術院「春の院展」春季展賞・足立美術館賞 受賞作品

永吉秀司

Nagayoshi Hideshi

“古典と現代の交差点。
独創の日本画を切り拓く”

古典的な日本画の技法に、現代的な感性や異素材を融合させた独創的な表現を追求し続ける永吉秀司さん。初めて絵の道具に触れた幼少期、常に新しいことを模索していた学生時代といった人生の軌跡や、作品に込めた想いなどをお話いただきました。

独創的な視点を持った少年が、美しさに魅かれて日本画の道へ

“絵に興味を持ったきっかけや、幼少期の思い出などがあれば教えてください。”

私の家は普通のサラリーマン家庭でしたが、父親が若い頃に使用していた油絵の道具が自宅に眠っていて。その道具を「何だろう?」と触り始めたのが、絵を描くきっかけになりました。幼稚園の頃から絵を描くのが好きで、上手く描きたい、リアルな表現をしたいと願っているのに、その気持ちを誰にもわかってもらうことができず、よく「違う!違う!」と言いながら落書き帳の絵を何枚も書き直していたそうです。節分の豆まきの絵を描いたとき、私は豆を投げる人の手を六本描きました。豆を投げている瞬間の動きを一枚の絵にまとめようとしていて、それなりに上手く描けていたのですが、先生には「この子は頭がおかしいのではないか」と心配される始末。自分の意図は大人に伝わらない…と、思ったことをよく覚えています。でも、先生に何か言われても自信を無くすタイプでもなかったので、可愛げがない子どもだったかもしれませんね。

“その後、美術系の高校に進学されますが、油絵や彫刻など様々なジャンルがあった中で、日本画を選択されたのはなぜですか?”

父親と『院展』や『日展』の公募団体展を訪れた時に、まだ小学生だったので飾ってある絵を漠然と眺めるだけだったのですが、すごく綺麗だなぁと印象に残ったのが日本画でした。油絵のゴテゴテした感じより、こちらの方がいいなと思った記憶が頭の中に残っていました。また、受験のためにデッサンも学ぶとき、機械的にモチーフをそのまま再現することに疑問を感じていました。そんなとき、円山応挙の写生帖を見る機会があり、そこで見た線と色だけで立体感と細やかさを表現する世界観の虜になり、この国で育まれた絵画表現を極めたいと思い、選択しました。

円山応挙の写生図

“実際に日本画を学ばれてみて、いかがでしたか?すぐに才覚が現れましたか?”

いやぁ、そんなことはないですね。高校で描いていた日本画は見せられたものじゃないというのが正直なところで。江戸後期の作品に感動した私は、普通は鉛筆でデッサンするのに、江戸時代の人に倣って筆と紙を持ち線描で植物を写生するなど、日本画にとらわれ過ぎていたのかもしれません。自分なりの解釈で表現できるようになったのは、当時憧れでもあった東京美術学校から発足した東京藝術大学に進学してからです。他と違うことをしようと意識が強すぎて、奇をてらうこと、実験的なことをやたらとやっていましたし、作風もバラバラ。スケッチ先で出会った水墨画家に"画道"と書いてもらったベストを着て、大学内を歩いていたのは黒歴史ですね。

“そんな時代もあったのですね。ご自身の作風が出来てきたのは、いつくらいでしょう?”

大学院を卒業するくらいの年齢ですね。人が生きる流れの中で、巡り巡るもの、悠久な時みたいなものが気になり出し、そういったことを自然の中でアプローチして書いてみよう、人物で代弁させてみようと思うようになりました。一時期は、戦争の残骸などを取材して描いていて、今でもライフワークとして続けるつもりです。『院展』で最優秀賞をとった作品も、伝承と風化していく信仰物を描いたもので、祈るという人間特有の行為が廃れていく瞬間を表現しています。

“なるほど。様々なタッチの作品を描かれていますが、個人的には三匹の雀が描かれた『三ツ雀』が本当に可愛らしくて、ずっと見ていたくなります。”

表現者というのは、見てくれる相手があってこそのもの。相手に共感性を持ってもらうには、作家自体がいろんなチャンネルで発表できなきゃダメだという思いが常にあります。例えば、哲学書を読みながら通勤電車には乗れない。だって、会社に行くのがイヤになってしまうから。でも、美術館に行って作品に触れるときは、いわゆる哲学書を読むような感覚で、作者は何を言おうとしているのかをじっくり考えながら見るはず。ですから、そんなときは、私も自分の哲学的要素を全面に出したものを出品しますし、部屋に飾ってもらうなら『三ツ雀』のような、命のきらめきを感じるようなものが良いですね。

「三ツ雀」
作:永吉秀司

作家活動をしながら後進の指導を。
絵画は何歳になっても学ぶことができる

“現在も新潟大学で准教授をされていますが、指導する立場になったきっかけは?人に指導することで、先生自身が刺激を何か受けることはありますか?”

私が大学院を卒業したのは、ちょうどバブルが弾けたとき。作家だけではなかなか稼げず、時間はあるのに絵の具が買えないという状態になってしまって。その時に、ストレスなくできる仕事は何かと考えたときに、人に指導するのは苦ではないし、好きな美術に触れられる、絵を描く時間は取られるかもしれないけれど、絵の具は潤沢に買えるという不純な動機で、まず中高一貫校の常勤教員になりました。付属の幼稚園の子ども達の指導もしたのですが、子どもたちの予想外の作品や表現の多様性に触れることができて、自身の表現方法の幅を広げる良い機会となったと思います。

今も大学や専門学校で教えていて、大人向けの市民講座も担当しています。なぜ指導することを続けているかというと、絵画はいくつになっても学ぶことができるから。学び直しやリカレント教育という言葉を最近よく聞きますが、芸術こそ最たるもので、気づきの機会と学ぶ場さえあれば、何歳になっても生涯やり続けられる崇高な活動じゃないかなと常に思っています。学び続けることを諦めないでくださいということは、声を大にして言いたいですし、社会における芸術振興の一助となれればうれしいですね。

“経歴を拝見していると、受賞歴も多く順風満帆のように思うのですが、挫折や苦労したことはありましたか?”

画家を辞めようと思ったことは何度もあります。厳しい世界ですし、特に大学院を出た直後は収入も少なく、ご飯も食べられなかった。でも、そんな苦しいときでも、節目節目で公募展の賞をいただいたりして、「ああ、まだ辞めなくていいのかな」と結果的に続いてきただけです。辞めた人もたくさん見てきましたし、教員になると授業以外の雑務にも時間を取られて、自分の絵を描く余裕が無くなってしまいます。その当時から私は夜中3時に寝て、朝7時に起きる生活をしています。教員の仕事が忙しいのなら、睡眠時間をギリギリまで削って、他の作家と同じくらいの仕事量はやろうと思って。

大学受験も、1日2〜3時間の睡眠で受験勉強に取り組み、もうこれ以上はできないというところまでやりきった。その成功体験とスタミナのおかげで当時は乗り切れました。さすがに現在では年齢を重ねスタミナが落ちてきたので、途中どこかで寝ているかもしれませんが、3時まで考え事をしたり、絵の構想や筆をとったりする習慣は今でも続いています。

“ハードな生活をしながらも描くことを続けられたから、今のご活躍があるのですね。毎日忙しいと思いますが、気分転換やリフレッシュをするためにすることはありますか?”

スケッチ旅行が最高のリフレッシュになりますね。以前も『院展』の先生方と一緒にヨーロッパにスケッチ旅行にでかけたのですが、その時は作品のことなども何も考えずに、歩いていて綺麗だなと思った風景をひたすら描き留めるだけ。本当に幸せな時間でしたね。2年前には一週間ほど青森に行って、独特の風習や祭礼行事を見学しました。お寺の許可をいただいて、信仰物をずっと描き続けていました。

「祈りのカケラ」
作:永吉秀司

「新しい技法も次々と取り入れて。表現者として崇高なものを描きたい」

“今後挑戦してみたいことや、描いてみたいモチーフなどはありますか?”

作家としては、ひとつのテーマに絞られることなく、創造主としてさらなる高みを求めていきたいという気持ちがあります。風景、人物、動物といろんなモチーフにも取り組んでいますが、どんなモチーフだとしても、私じゃないと描けない絵があるはず。表現者としてもっと崇高なものを描けるようになりたいという思いは常々あります。そのために、新しい技法を作って、形骸的になってきたと感じたらその技法を捨てて、何か別の方法を試すということを続けています。

個展風景:弥彦の丘美術館

“具体的には、どんな技法を試されているのでしょう?”

自然物を絵の具の中に入れて、抽象的な荒々しさや細密描写がうまく融合して、ひとつの形ができないかなと思い、新潟の海の砂を取り入れたこともあります。煙突のすすを削って調合して独特の表現を生み出すなど、自然物から作品のイマジネーションが広がればいいなと思っています。

あと、地方に住んでいると、絵を描いているけれど発表していない方々もたくさんいることを実感します。中央の展覧会などに出す機会がない、私なんてと躊躇されている方もいるので、そういう方の手助けもしていきたいと思っています。今年は9人が院展に挑戦して、3人が入選しています。新潟に縁がある限り、そういった活動は続けていくつもりです。

“作品も、手が動く限り書き続けられますか?”

ある程度の年齢になれば筆をおいて…とは、ならないですね。大正から昭和にかけて日本美術院で中核的役割を担った前田青邨先生などを見ていると、やっぱりいくつになっても、この年齢でしか描けない線がある。公募団体にいると、それを体現されている先生をたくさん拝見する機会があり、自分にはひょっとしたら一生かかってもできないものがあるのかもしれない。ただ、そのような一生をかけて取り組むことのできる世界に出会えたのも良かったなとも感じています。

“最後の質問です。改めて日本画とはご自身にとってどういうものでしょうか?”

月並みで申し訳ないですが、日常ですね。高校生の頃から画材が近くにある生活をずっと続けているので、ないという状態がイメージできない。日本画は社会とつながりをもつ唯一のツールといっても過言ではないかもしれません。その一環と言っては何ですが、現在、新潟県の関川村にある で壁画の修復と、本堂の壁面全体に来迎図を制作するプロジェクトに取り組んでいます。弘長寺は由緒正しいお寺ですが、限界集落なので檀家も徐々に減ってきている。そこで、ご住職がお寺の文化資産としての価値を高めたいと考えられていたときに、偶然お会いする機会があって、ひとりの作家がその寺院の壁面全てを日本画で装飾するという事業が生まれました。ご住職の教義をふまえて来迎図をもう30枚以上描いているのですが、まだまだ、寄進いただいている壁面が多く、あと10年以内に完成できればと思って取り組んでいます。

“面白そうなプロジェクトですね。完成が楽しみです!”

普通、作家に頼むときは作家に全てが一任されるのですが、ご住職は要望もたくさん出されるし、仕事が進まないといつできるのか聞いてこられる。でも、この距離感が良い。私も『日本美術院』に所属して、より高い次元で日本美術の発展に貢献したいと思いながら日本画を描いていますが、今のような距離感で付き合える人間でいたいなと思います。今までいろんな巨匠と触れ合ってきましたが、巨匠の先生方ほど無償でこちらに付き合ってくれたりしたので。それに、ご住職のように、絵画を大切にしてくれる人がいるということがありがたい。日本画は日常だと言いましたが、大切にしてくれる方がいるから、私も絵を描くこと、日常を続けさせてもらうことができる。そのありがたみを感じながら、これからも作品を描いて行こうと思います。

弘長寺での制作風景

「日本画は日常」と語る永吉さん。その穏やかな笑顔の奥には、現状に満足せず常に新しい表現を模索し続ける、表現者としての熱い情熱が静かに燃え続けています。新潟・弘長寺での壮大な来迎図プロジェクトを含め、年齢を重ねるごとに深みを増していく永吉さんの「これからの線」がどのような世界を見せてくれるのか。今後のご活躍から、ますます目が離せません。