美術大学では、1、2年はとにかくデッサン的な描写力を身に着けることに取り組みました。
そして2年時に古典技法のゼミと、3年時に現代美術のゼミを経験したことが、これまでの作品制作に非常に影響しています。
古典技法ゼミはイタリアで古典絵画技法を学んだ斎藤國靖 さん。
現代美術ゼミはデュセルドルフ芸術アカデミーを卒業した小野 皓一さんが担当講師でした。
まったく相反する方向性を持った表現の可能性に興味を持ったことで、
それらをどのように咀嚼して自分の表現にするかが問題となりました。
以上のような理由から作品の発表を始めてから、これまで私の表現様式は、4回ほど変わりました。
1つ目は「抽象絵画のプラクティス」(ミニマルな抽象) 1990~1995
2つ目は「ミメーシスのプラクティス」(現実の模倣への回帰)1998~2003
3番目は「行為の体積/情報の抽出」(ミメーシスの分析)2004~2016
4番目は「古典技法のプラクティス」2017~現在、です。
ミメーシスとは、「現実の模倣」という意味の言葉です。
プラクティスとは、「練習・演習・実践」という意味の言葉です。
私が絵画を理解するうえで重要だと思うのは、意味と構造だと考えています。
美術史的に言うと図像学と様式論になります。
絵画というものは究極的な用途・目的としては、壁の装飾だと私は思うのだけれども、絵を読むもの(図像学)として捉えるのか、絵を感じるもの(様式論)として捉えるのかで、装飾としての意味合いが変わってくる。
例えばパウル・クレーやポリアコフの抽象作品は。説明的な要素がなくても成立しうる色彩の心地よい響きあいがある。レンブラントやアンドリュー・ワイエスの作品はイメージを読み取ることで、人生の意味を感じさせる何かが存在する。
何が大事だと思うのかは、人それぞれだと思いますが、自分としては絵画を描くこと自体に対しても興味があります。現在のようにAIが画像イメージを生成できる状況では、作品を人間が描くという必然性をどこに求めるかということが大事だと思うのです。
そういった意味で、今現在、私が取り組んでいる油絵のグリザイユ技法は、絵の支持体であるパネル作りから始まり、絵を描くためのプロセスが多く時代遅れであるが上に、逆にやる意味があると感じています。絵画の制作には、画像をパソコン上で作成するのとは違い、イメージを物質的マチエールと融合させるむずかしさがあり、同時にそれが魅力でもあります。
ここ最近の絵のテーマは、主に山に関連したものです。
私は2011年に起きた東日本大震災の時にボランティア活動をして、そのときに見た被災地の絵を描きましたが、その後何をテーマに絵を描くべきなのかを悩んだ時期がありました。
被災地では、自然の破壊的な脅威を見せつけられましたが、自然との関係性を見つめなおすきっかけにもなりました。
その後、若い頃にしていた登山を再開するようになり、山に登ることでいろいろな表情を見せる、ありのままの自然と出会うことができることに、気づきました。
時に恐ろしく、時に穏やかな自然と対峙することで、自分という存在を見つめなおすことで、生と死という根本的なテーマを捉えなおしていきたいと考えています。