東京都練馬区にあります、真言宗 非法人寺院の住職です。木暮全照。
デザイン専門学校卒業後、サラリーマンを経て得度。高野山真言宗教師免許取得。
放送大学教養学部卒、心理学専攻で認定心理士取得。
東京都の自宅を改装し真言宗寺院として開山致しました。
篆刻(石のハンコ)は雨人先生に学びましたが、自作の印はかなり自己流でやっています。正統な篆刻の形式はあまり意識せず、現代アートやインテリア書道的な作品を作ります。
篆刻を知る人は少ないと思いますが、単純に書道作品に押す落款印以外にも別の楽しみ方があるのではないかと考え、図案や風刺を混ぜて自由に作っています。
西洋芸術史をやりましたので、私の作品はやはりコンセプチャルアートだと思います。若い頃はダリやゴヤが好きでしたが、ルネサンス以前の原始的なゴシックの世界も好きです。
水墨画も我流ですが、仙崖義梵を勝手にライバル視しているので作家名は骸仙全照と名乗っています。
ユング心理学や彼の禅や錬金術解釈に関係する作品なども作成しています。
WORKS 作品
INTERVIEWインタビュー
【非公開】骸仙全照
“シンプルに美しいもの”を追い求めた過去
消えた創作意欲と、新たに形成された自分
AI全盛の現代だからこそ
骸仙全照
仏教や禅に関する作品が多いですが、以前からの作風ですか?
過去の作風はまったく違います。仏教も、たしかに実家が〇〇宗といったことはありましたが、とくに敬虔に信仰していたわけでもありませんでした。今のような墨絵にも、まったく触れませんでしたし、創作自体は幼少から好きでしたが、描きたいものも単純に美しい女性などで今と全く違いました。
若い頃はイラストレーター、グラフィックデザイナーでもあり、ロゴデザインやイラスト作成をしていました。絵を描く場合、どちらかといえば女性が好むような、化粧品デザインのようなオシャレな作風が多かったです。多くの人がシンプルに美しいと思うもの、たとえば甘美なエロスを含んだ若く美しい女性であったり、西洋絵画的な写実的な絵もたくさん描きました。
ところが、ある時を境に何かを描きたいという衝動が完全に消失したのです。気持ちが乗らないどころか、もう筆を握るのも吐き気がすると。他の音楽や映画などを始め美術作品さえ殆ど楽しめなくなってしまい、自分はクリエイターとして一回は完全に終わったのだと思います。
「唯我独尊」
作:骸仙全照
創作意欲が消失した原因は何だったのでしょうか。
同時期に深層心理学や哲学を研究していまして、自分の心を理解するほどに、今までの創作の衝動や欲求が突然止んでしまいました。心理学的には、実は芸術は精神の歪みであるコンプレクスが創作のエネルギーや原動力になるのですね。おそらくそれが矯正された結果、創造性が一時期はほぼゼロになりました。
そこからの復活に、仏教などが関係してくるのでしょうか。
たとえばユング心理学は、よく仏陀やキリストや禅に言及します。ニーチェ哲学も原始仏教に通じる部分が多く、そうした関連でよく研究したのは2600年前にブッダが実践していた原初の仏教です。さらに古代インドのバガヴァッド・ギーターです。
詳しく話すと長くなるので省きますが、ユングが自らにやったようなリハビリを10年以上かけて創作意欲がゆっくり回復していきました。でも描きたいものは、以前とは真逆でした。たとえば日本画であっても単純な美しい女性や富士山や桜などは、殆ど描きたいと思いません。興味の対象が完全に変わったからです。
現在の作品には死を連想させるモチーフが多数ありますね。
仏教には諸行無常という思想があり、あらゆる物は変化するので、過去や今に執着するのではなくその変化を受け入れましょうという教えがあります。死は一つの無常です。一般的には不吉とされる死ですが、それを単に忌み嫌うのではなく、一つの理想であり、また新たな生とすら考える。さらにそこには寂滅という究極の美の境地さえあるかもしれません。若い人は無理に理解する必要は無いと思いますが、しかし大昔からこの心境は存在したのでしょう。
作品に登場する骸骨も、むしろユーモアを感じていただけると思います。この個展のタイトルは最初、楽しい地獄にする予定でした。河鍋暁斎の描く地獄太夫と一休や、仙厓義梵のユルい犬の落書きのような、明るくて少し怖い作品を描こうと思っていました。死之舞踏は、中世に西洋で流行した同名の絵のオマージュ的な作品ですが、この元のヨーロッパの絵の死や死神たちに、突き抜けた明るささえ感じます。ソクラテスは愛智は死の訓練であると言い、禅(瞑想)はニルヴァーナ(寂滅)の訓練でした。意外にも寂滅という死の世界は、明るく非常に美しいかもしれません。
「死之舞踏」
作:骸仙全照
これからとくに世に発信していきたいことはありますか。
今はずいぶんAIが進化して、イラストレーターは廃業するなどと言われています。そんな今だからこそ、ますますAIが表現しにくい、アナログで人間くさい作品を創り続けたいです。私もかつてはWEB系の人間だったので、よく分かるのですが、デジタルは本当に便利です。間違っても一瞬で、ひとつ前に戻れる。何回でもやり直せる。
でも、いま好んで手がけている篆刻(てんこく)などは、その真逆です。いちど削った石は直せない。イメージしていたものと、まるで違う作風にもなる。計算通りに行かないし、失敗しても直せない。水墨画も同じだからこそ、これが面白い。この逆AI的な面白さを、もっと多くの方に知って頂きたいです。ちなみにユングがやったリハビリとは古代人のように石を彫ることでした。
作品へ触れる方へメッセージをお願いします。
私のように仏教や禅などと言うと、どこか身構えてしまう方がいるかも知れません。しかし仙厓義梵の絵のようにてきとうで良いかと思います。これは現代では芸術全体に言えることですが、たとえ偉人の作品でも、あなたが退屈と思うのならそうだし、その逆も然りです。芸術は高尚なものだとか、特別な解釈をしなければいけないとか、そう思わないで構わないのではないかと。私はずいぶん奇妙な世界を描いていますが、自由にてきとうに楽しんで頂けたら、それが何より嬉しく思います。
「仏足石」
作:骸仙全照
創作意欲の完全な消失から10年以上かけて復活を遂げ、仏教や禅という全く新しい世界へと辿り着いた中島氏。AIが全盛の今だからこそ、アナログで人間くさい作品を創り続けたいと語る彼が、これからどのような奇妙な世界を描き出していくのか、その歩みに期待が高まる。
EXHIBITIONS 展覧会情報
2026.02.01 - 2026.02.15
骸仙全照 Web個展 死禅(Shizen) — 美しい死と涅槃 —
「死禅」と書くと不吉に見えます。しかし日本では殆ど知られていませんが、原始仏教において仏陀やその弟子達は死体の散乱する墓場で瞑想し修行しました。無常を悟る為である。現在でも上座部仏教では警察の死体置き場で僧侶が瞑想修行しますが、日本人の目には奇異に映るでしょう。
まずインドにおいて仏教は上座部と大乗に分かれ、中国では後者が儒教や道教の影響を受けました。日本に渡ったのはこの大乗仏教ですが、さらに日本では神道と習合したこともあり自然崇拝的な禅(瞑想)が日本人には好まれるようです。
しかし原始仏教における瞑想は自然を愛し一体化する瞑想(禅)というより、自然含めたこの宇宙から自らを完全に消し去る(=つまり生きないこと)ことを至高と考える恐ろしいものであった可能性があります。自然含めたこの宇宙の全てに対する愛着(愛・執着)を断つ瞑想(禅)であったと思われる。だから自然ではなく死禅なのである。
そしてソクラテスは愛智(哲学)とは死の訓練であると言い、肉体とは魂の牢獄だと言いました。死とはその牢獄からの魂の解放であると考えたのである。 愛智とは死(魂の解放)の訓練であり、禅とは涅槃(ニルヴァーナ)の訓練である。その意味での「死禅」である。至高の美への旅立ちである。
作品には大乗仏教的な物も含めましたが、基本的にこの原始仏教を意識した物になっています。