小さな饅頭屋が見抜いた「世界のムナカタ」
——棟方志功、板画に憑かれた鍛冶屋の子の生涯
昭和28年(1953年)、埼玉県行田市の小さな和菓子屋の主人が、一人の版画家のもとを訪ねた。手土産の饅頭を一口食べた版画家は、「うまい」とつぶやき、こう続けたという。「行田名物にしておくには、うますぎる」――。
その男は、まだ世に広く知られていなかった。「変わった版画家」という評価すら珍しくなかった時代である。だが菓子屋の主人は、作品を見て「これは本物だ」と直感したと伝えられる。彼が世界の頂点で「世界のムナカタ」と称されるのは、それから約3年後のこと。無名の一芸術家の才能を、地方の菓子屋が世界に先んじて見抜いていた――そんな逸話が残るほど、棟方志功という人物の輪郭は、はじめから常人離れしていた。
では、その「見抜かれた男」とは、いったい何者だったのか。棟方は2023年に生誕120年、2025年に没後50年を迎えた。この節目に、国内では大規模な回顧展が相次ぎ、海外でも「日本のゴッホ」と評されるなど、その評価はいま改めて高まりを見せている。近眼の鍛冶屋の子が、いかにして「板画」という独自の宇宙を切り拓き、世界に刻まれたのか。生誕120年、そして没後50年――国内外の実績を踏まえて「世界のムナカタ」をもう一度とらえ直したい。
「わだばゴッホになる」——鍛冶屋の子の原点
棟方志功は1903年9月5日、青森市安方(当時は大町)に生まれた。父・幸吉、母・さだのあいだに、九男六女の第六子(三男)として生を受ける。家は代々、鍛冶職を営んでいた。
幼い頃から極度の近視に悩まされながら、志功は絵を描くことに取り憑かれた少年だった。小学6年のとき、不時着した飛行機を見ようと走った先の田んぼで、白い水草の花(沢瀉)を見つける。その美しさに心を奪われ、「この美しさを表現できる人になりたい」と決意した――そんなエピソードが伝わる。1916年に長島尋常小学校を卒業すると、兄とともに家業の鍛冶屋を手伝った。
17歳で裁判所の弁護士控所に給仕として雇われると、空き時間には青森・合浦公園で写生に励んだ。そして18歳のとき、画家・小野忠明にゴッホの《ひまわり》の原色版を見せられ、大きな衝撃を受ける。“わだばゴッホになる!(おれはゴッホになる)”——このとき叫んだ言葉は、彼の生涯を象徴する台詞として語り継がれている。
1920年代前半に上京した志功が目指したのは、あくまで油絵だった。だが官展(帝展)には落選が続く。苦悩の末、5度目の挑戦となった1928年、油絵《雑園》がようやく入選し、初めて公的な承認を得た。
油絵から「板画」へ——運命を変えた一枚の版画
転機は、一枚の版画との出会いだった。1926年、川上澄生の《初夏の風》を目にした志功は、木版画の力に打ちのめされる。翌1927年には自ら木版画を制作し、1932年には木版画家・平塚運一を訪ねて技法を学んだ。この頃、国画会展に出品した作品が奨学賞を受け、ボストン美術館やパリ・リュクサンブール美術館に買い上げられるなど、早くも海外に名が渡り始めている。
決定的な飛躍は1936年。旧字体まじりの題字を含む大作《大和し美し版画巻》が、柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司ら 民藝運動 の指導者たちの目に留まり、日本民藝館の買い上げとなった。以後、志功は柳を生涯の師と仰ぎ、和紙師・藁科狩禰や画家・中川一政ら、民藝を軸とする豊かな交友の中で、自己流の表現を練り上げていく。
川上澄生 『初夏の風』(1926年) / パブリックドメイン
そして1942年、随筆『板散華』で、彼は自らの作品を一般的な「版画」ではなく 「板画(はんが)」 と呼ぶことを宣言する。板そのものが生み出す生命力を信じたからだ。1952年には日本版画協会を脱退し、下沢木鉢郎らとともに日本板画院を創設。伝統的な木版画を出発点としながら、誰にも似ていない独自の道を歩み始めた。
「板画」という独自の宇宙
棟方の作風は、従来の日本木版画に、遠近法を排した原始的な力強さを融合させた、他に類を見ないものだった。墨一色刷りを基本とし、作品のタイトルや詩文を画面に大書する書家的な要素を併せ持つ。大きな版木を大胆に彫り、高い運筆で荒々しくも躍動感あふれる図像を生み出す。裏彩色も駆使し、戦後は朱や緑を交えた作品も増えた。題材の多くは、仏教や民話、詩歌に着想を得ている。
代表作を一覧すると、その歩みが見えてくる。
| 作品名 |
制作年 |
技法・形式 |
主な所蔵先 |
備考 |
| 大和し美し版画巻 |
1936年 |
墨摺木版・屏風 |
日本民藝館 |
国画会展初出品・買上げ |
| 二菩薩釈迦十大弟子 |
1939年 |
墨摺木版・六曲屏風 |
千葉市美術館 |
1940年 国画会展 佐分賞 |
| 鐘渓頌 |
1946年 |
墨摺木版・画巻 |
東京国立近代美術館 ほか |
1946年 日展 岡田賞 |
| 女人観世音板画巻 |
1952年 |
墨摺木版・掛軸 |
日本民藝館 |
1952年 ルガノ版画展 優秀賞 |
| 歌々板画柵 |
1956年 |
墨摺木版・屏風 |
東京国立近代美術館 ほか |
1956年 ヴェネツィア国際版画賞 |
二菩薩釈迦十大弟子 『須菩提の柵』
鍾溪頌『此岸の柵』
歌々板画柵『桜吹雪の柵』
とりわけ《二菩薩釈迦十大弟子》は、興福寺の須菩提像に想を得た六曲屏風で、大柄な板木に躍動する彫りを刻んだ、彼の名を世界に轟かせる一作となった。《女人観世音板画巻》は清水寺の千手観音伝承をもとにした戦後の代表作で、画面右上に「女人観世音」の題字が大きく墨書される。制作に没頭すると周囲が見えなくなるほど熱中し、極度の近眼ゆえ板に顔を擦りつけるようにして彫るその姿は、「神懸かり的」とも評された。志功自身は「私は自分の仕事に責任を持っていない。自分を動かしている存在がいる」と語り、創作を仏の力に委ねていると信じていた。
「世界のムナカタ」へ
戦後、棟方の板画は次々と国際舞台で評価を勝ち取っていく。
- 1946年 第2回日展で《鐘渓頌》が岡田賞
- 1952年 スイス・ルガノ国際版画展で日本人初の優秀賞(銅賞)
- 1955年 サンパウロ・ビエンナーレ 版画部門最高賞
- 1956年 ヴェネツィア・ビエンナーレ 国際版画大賞
1968年 棟方志功の木版画スクリーンの展示風景
ニューヨークブルックリン美術館
とりわけ1956年ヴェネツィアでの大賞受賞は、「世界のムナカタ」という称号を決定づけた。1960年にはクリーブランド美術館で回顧展が開かれ、ニューヨーク・シアトル・ロサンゼルスを巡回。国内でも1964年に朝日文化賞、1970年に文化勲章および毎日芸術賞を受章した。
彼の作品は早くからボストン美術館やパリ・リュクサンブール美術館に収蔵され、現在ではワシントンD.C.のスミソニアンをはじめ、MoMA、フィラデルフィア美術館、大原美術館など、世界各国の美術館に数多く所蔵されている。
栄光の裏で、棟方の生涯は苦難の連続でもあった。少年期は生活苦から家業を継がざるを得ず、酒乱の父・幸吉の暴力にも苦しんだ。1930年には資金難のため、妻・赤城チヤを青森に残して単身上京するなど、家族に大きな負担をかけている。
戦争は、築き上げたものを容赦なく奪った。1945年、富山県南砺市へ疎開中に東京大空襲で代々木の自宅「愛染苑」が全焼し、戦前作品の版木の大半を失う。終戦後はそのまま福光町(現・南砺市)に居を定めた。健康面でも、元来の近視に加えて1950年代後半には左眼を失明した。それでも彼は、制作の手を止めなかった。1959年に沖縄で起きた宮森小学校への米軍機墜落事故では、その翌年、僧侶の依頼を受けて犠牲者供養の墨絵を制作し遺族に贈っている。棟方の筆は、しばしば人の悲しみに静かに寄り添った。
温厚な人柄と、抑えきれぬ即興性
苦難を重ねながらも、棟方を知る人々は、その人柄を「明るく博愛的で、誰にでも優しかった」と口を揃える。酒乱の父とは対照的に、献身的だった母・さだへの追慕は生涯消えず、作品に繰り返し現れる女神崇拝的なイメージの源泉になったとも指摘される。晩年、多くの知人に絵を添えた礼状を送り続けたことは有名だ。なかでもダルマ像を描いた手紙は、孫の石井頼子氏によれば「制作途中で急逝したため100通を果たせず、送り先によってダルマの姿が少しずつ弱々しくなっていった」という。最期まで続いた、律儀さと業のような制作衝動の一端がうかがえる。
その一方で、抑えきれぬ即興性が愛すべき奇行として噴き出すこともあった。1934年には東京・中野の借家の襖にタコを描いて大家に叱られ、制作時には画仙紙を敷き詰めて踊るように筆を走らせたと伝わる。仲間内では「棒」というあだ名で呼ばれた逸話も残る。
“冒頭の饅頭の逸話も、この即興性の産物だった。”
1953年、行田の菓子屋――名物「十万石まんじゅう」で知られる十万石ふくさや(旧・福茶屋)――の初代・横田信三が、書道家・渥美大童の紹介で、掛け紙用の絵を頼むために志功のもとを訪ねた。手土産に持参した饅頭を、大の甘党だった志功は次々と頬張り、「うまい」「うますぎる」と絶賛したという(食べた個数には5個とも6個とも諸説あり、公式には明記されていない)。そして頼まれた図柄の枠を超え、その場で筆を取って、忍城の姫をあしらった絵と題字を色紙に描き上げた。依頼がきっかけではあれ、あの一枚を生んだのは棟方自身の感動だった――それが今も同店の看板銘菓のパッケージとして生き続けている。ちなみに「うまい、うますぎる」は、のちに同店を象徴するキャッチフレーズとなった。冒頭の菓子屋の主人が出会ったのは、まさにこういう男だったのだ。
版画界を越えた、意外な交わり
棟方の交友は、版画界の内にとどまらなかった。心のよりどころは、つねに故郷・青森にあった。1969年には青森市名誉市民の第1号に選ばれ、1971年には陸奥新報社の依頼で「志功ねぷた」を制作し、弘前ねぷたまつりに出陣させている。芸術の世界では、倉敷・大原美術館の設立に連なる大原孫三郎・總一郎父子と1938年頃に出会い、支援を受けたと伝わる。1963年には同館に板画館が開かれた。
国際的な広がりも見逃せない。1958年には外務省主催の国際巡回展に、1959年にはロックフェラー財団らの招聘によって渡米し、全米各地で個展を開き、大学で日本版画を講義した。宗教界からの敬意も厚く、1961年・1962年には法輪寺や日石寺から、版画芸術に対して法橋・法眼の号を授けられている。鍛冶屋の子として生まれた男の芸術は、地域・国家・宗教という垣根を軽々と越えて評価された。
年表で辿る、棟方志功の生涯
- 1903年 青森市に生まれる
- 1916年 長島尋常小学校を卒業、家業の鍛冶屋を手伝う
- 1926年 川上澄生《初夏の風》に触れ、版画に開眼
- 1928年 第9回帝展に油絵《雑園》が入選(5度目の挑戦)
- 1932年 国画会展で奨学賞。作品がボストン美術館・リュクサンブール美術館に買上げ
- 1936年 《大和し美し版画巻》を国画会展に出品、日本民藝館買上げ
- 1938年 新文展で《勝鬘譜善知鳥曼荼羅》が版画初の特選
- 1945年 富山へ疎開中、東京大空襲で自宅焼失、版木多数を喪失
- 1946年 第2回日展で《鐘渓頌》が岡田賞
- 1952年 ルガノ国際版画展で優秀賞。日本板画院を創設、NYで初の海外個展
- 1955年 サンパウロ・ビエンナーレ 版画部門最高賞
- 1956年 ヴェネツィア・ビエンナーレ 国際版画大賞
- 1959年 ロックフェラー財団らの招聘で初渡米、全米で個展・講義
- 1960年 クリーブランド美術館で回顧展(米国内巡回)
- 1964年 朝日文化賞
- 1969年 青森市名誉市民に
- 1970年 文化勲章・毎日芸術賞を受章
- 1975年9月13日 肝臓癌のため死去。同年11月、青森市に棟方志功記念館が開館
「わだばゴッホになる」と叫んだ少年の、その後
近眼の鍛冶屋の子として生まれ、「わだばゴッホになる」と叫んだ少年は、ゴッホになる代わりに、誰にも似ていない「世界のムナカタ」になった。厳しい環境に育ちながら独自の世界を切り拓き、木版画の力強さと書画的表現を融合させたその作風は、いまも多くの後進に影響を与え続けている。 そして――行田のあの饅頭の包み紙もまた、彼が遺した数多の板画と地続きの、まぎれもない棟方志功の作品なのである。世界が「ムナカタ」と呼ぶより前に、その才を見抜いた一軒の菓子屋があった。その事実こそ、彼の才能がいかに本物であったかを、静かに物語っている。
没後50年――再評価は、いまも続いている
2025年、棟方志功は没後50年を迎えた。だがその評価は過去のものとして静まるどころか、近年むしろ熱を帯びている。2023年の生誕120年には大回顧展「メイキング・オブ・ムナカタ」が青森・東京・富山を巡回し、板画のみならず倭画・油絵から装幀・包装紙のデザインまで、領域を軽々と越えた全体像が改めて示された。翌2024年には49年の歴史をもつ青森の棟方志功記念館が役割を終え、全所蔵品を青森県立美術館へ移管。展示空間を2倍以上に広げ、その顕彰は次の世代へと受け継がれた。そして没後50年の2025年、青森県立美術館「青森の子 世界のムナカタ」をはじめ、大阪・広島など各地で記念展が相次いだ。
海外での評価も、静かに、しかし確実に高まっている。英字メディアは棟方を「日本のゴッホ(Japan's van Gogh)」と呼び、《二菩薩釈迦十大弟子》の荒々しい抽象性を、同時代のピカソ《ゲルニカ》になぞらえて論じた。その作品はMoMAやブルックリン美術館、ロサンゼルス・カウンティ美術館など欧米の主要館に収蔵され、オークションでは代表作が100万ドル近い高値で取引された記録も残る。
棟方志功
いまアニメやゲーム、民藝、和食に至るまで、日本文化はかつてない規模で世界の視線を集めている。その潮流のなかで、遠近法を捨て墨の黒と余白だけで祈りと生命力を刻む棟方の板画は、「日本的でありながら、世界のどこにも似ていない」という一点で、ますます替えのきかない存在になりつつある。西洋に憧れて「わだばゴッホになる」と叫んだ少年は、最も土着的な手わざで世界に届いた――半世紀を経たいまだからこそ、「世界のムナカタ」は過去の称号ではなく、これからの日本美術が世界と対峙するときの、確かな道しるべであり続けている。