実家が呉服屋で幼い頃から生地やボタンなど、美しいものに囲まれて育ったという山内さん。自然と備わった審美眼の保養をしてくれたのは子どもの頃から目にしていた「雑誌」だという。
「原点は、『荘苑』。田舎なので情報の発信源は雑誌なんです」と、雑誌から最新の文化が発信されていた当時を振り返る。
「その中でイラストレーターという言葉を知りました。それで高校のときにファッションイラストレ―ターになるという夢をみんなの前で口に出して言ったことがあるんです。田舎ですからみんな呆気に取られていましたけど。ディスクジョッキーなど、カタカナ職業が憧れの的として登場した、そんな時代でした」
「イラストレーターになる」という宣言の実現化に向けて学校の勉強もそこそこに、通信教育に励んだ。
「イラストレーターになりたい!という気持でもうまっしぐらでしたね。東京なんてまだ夢のような世界だったので地元の短大のデザイン科に入りました。私はあまりデザインは得意じゃなくて、絵ばかり描いていました。その頃からデパートの絵を描きたい、そんなことを思っていました。憧れのイラストレーターが伊勢丹のイラストレーションで有名な毛利彰さんだったんです。デパートのポスターや新聞広告のイラストを描きたいと思いました」
その強い思いを胸に、積極的に行動に移した山内さんは自らの作品を持って広告デザインを扱う当時のたき工房の扉を叩いた。
「所長さんにお会いしたらもうすでにイラストレーターを入れたばかりだから当分いらないと言われました。ただ、私の絵を見て、作品を描いたら持ってきなさいと言ってくださったんですよね。ほぼ週一回のペースで作品を持って所長のもとへ出かけまして。1~2か月経った頃か、晴れて迎え入れてくださいました」
「ラッキーでした」と言う山内さんだが、熱意ある行動力によって掴んだ仕事だ。そこからは一日中絵を描き、2年目は終電で帰路に就く日々を過ごしたが、家の事情もあり2年で退職した。
「私はフリーランスになりたかったんです。会社にいると、その中のことしかわからない、もっと外の世界を知りたくて。外ではどんなふうに仕事が動いているのか、イラストレーターがフリーになるというのはどういうことなのか。先輩のイラストレーターは東京に行くなど、すごく活発に動いていた時代だったんですね。だから夢がどんどん膨れ上がっていって、えい、もうやめたい!自分にもできるんじゃないかという妙な自信もありました。生意気ね(笑)若気の至りですね、今思えば」
イラストレーターというお仕事は広告と関わる部分も多いため、心身ともにいかにタフでいられるかが重要だ。フリーランスとなった山内さんが、名古屋三越(当時はオリエンタル中村)の宣伝部に面接に行ったときに言われた一言があった。
「絵を見るなり私に、『君、身体は丈夫か?』と。つまり、病気がちだとこの仕事は務まらないということで確認してきたのだと思います。『私は丈夫です』と返したら、『じゃあ明日から頼みます』と言われました。この時代はデパートが新しい分野をつくりあげていた隆盛期で、東京の錚々たる人たちの原画を目の当たりにして仰天しました。こんなすごい絵を描いてすごい仕事をしているのだと。いきなりポスターの仕事はできません。まずは新聞広告でモノクロの絵をずっと描いていました」
数年越しに晴れて掴んだポスターの仕事は、名古屋のデパート「メルサ」だ。「メルサ」のポスターを始め、数年後には高島屋から声がかかり、高島屋の1周年と2周年キャンペーンの仕事を受注した。
「気持よく仕事ができて、記憶に残っているお仕事でした。デザイナーの方にも嬉しい感想をいただいて、その後も東京から連載のお仕事をいただくなど良いことが続きました。もちろん営業もしていますし、大変なお仕事もたくさんやった上でのことです」
“JRのコンコース巨大コルトンはじめJR一帯柱巻き広告、ポスター、新聞全面広告
ショッピングバッグなど店内一帯ピンク色に染まっていたのがうれしかったです。”
“毎週本屋さんに並べられやりがいがありました。”
“海外なら日本的なものと狙いました。日本展示館のトップに展示されていました。”