Interview: 山内三貴子

描くことに生きる、ということ―変わりゆく時代と変わらない情熱

 

フリーイラストレーターとして40年。
憧れだった有名デパートのポスターから化粧品ブランド、CDジャケットや本まで、様々な媒体や商品に登場している山内三貴子のイラスト。
近年では個人の作品としての水彩画制作や教室を始めとした若者の育成にも力を入れている。
時代の変化に応じ、変わることを恐れないスタンス。
絵と共に生きてきた“イラストレーター”山内三貴子のこれまでとこれから。

 
 
実家が呉服屋で幼い頃から生地やボタンなど、美しいものに囲まれて育ったという山内さん。自然と備わった審美眼の保養をしてくれたのは子どもの頃から目にしていた「雑誌」だという。
「原点は、『荘苑』。田舎なので情報の発信源は雑誌なんです」と、雑誌から最新の文化が発信されていた当時を振り返る。
 
 
「その中でイラストレーターという言葉を知りました。それで高校のときにファッションイラストレ―ターになるという夢をみんなの前で口に出して言ったことがあるんです。田舎ですからみんな呆気に取られていましたけど。ディスクジョッキーなど、カタカナ職業が憧れの的として登場した、そんな時代でした。」
 
 
「イラストレーターになる」という宣言の実現化に向けて学校の勉強もそこそこに、通信教育に励んだ。
 
 
「イラストレーターになりたい!という気持でもうまっしぐらでしたね。東京なんてまだ夢のような世界だったので地元の短大のデザイン科に入りました。私はあまりデザインは得意じゃなくて、絵ばかり描いていました。その頃からデパートの絵を描きたい、そんなことを思っていました。憧れのイラストレーターが伊勢丹のイラストレーションで有名な毛利彰さんだったんです。デパートのポスターや新聞広告のイラストを描きたいと思いました。」
 
 
その強い思いを胸に、積極的に行動に移した山内さんは自らの作品を持って広告デザインを扱う当時のたき工房の扉を叩いた。
 
 
「所長さんにお会いしたらもうすでにイラストレーターを入れたばかりだから当分いらないと言われました。ただ、私の絵を見て、作品を描いたら持ってきなさいと言ってくださったんですよね。ほぼ週一回のペースで作品を持って所長のもとへ出かけまして。1~2か月経った頃か、晴れて迎え入れてくださいました。」
 
 
「ラッキーでした」と言う山内さんだが、熱意ある行動力によって掴んだ仕事だ。そこからは一日中絵を描き、2年目は終電で帰路に就く日々を過ごしたが、家の事情もあり2年で退職した。
 
 
「私はフリーランスになりたかったんです。会社にいると、その中のことしかわからない、もっと外の世界を知りたくて。外ではどんなふうに仕事が動いているのか、イラストレーターがフリーになるというのはどういうことなのか。先輩のイラストレーターは東京に行くなど、すごく活発に動いていた時代だったんですね。だから夢がどんどん膨れ上がっていって、えい、もうやめたい!自分にもできるんじゃないかという妙な自信もありました。生意気ね(笑)若気の至りですね、今思えば。」
 
 
イラストレーターというお仕事は広告と関わる部分も多いため、心身ともにいかにタフでいられるかが重要だ。フリーランスとなった山内さんが、名古屋三越(当時はオリエンタル中村)の宣伝部に面接に行ったときに言われた一言があった。
 
 
「絵を見るなり私に、『君、身体は丈夫か?』と。つまり、病気がちだとこの仕事は務まらないということで確認してきたのだと思います。『私は丈夫です』と返したら、『じゃあ明日から頼みます』と言われました。この時代はデパートが新しい分野をつくりあげていた隆盛期で、東京の錚々たる人たちの原画を目の当たりにして仰天しました。こんなすごい絵を描いてすごい仕事をしているのだと。いきなりポスターの仕事はできません。まずは新聞広告でモノクロの絵をずっと描いていました。」
 
 
数年越しに晴れて掴んだポスターの仕事は、名古屋のデパート「メルサ」だ。「メルサ」のポスターを始め、数年後には高島屋から声がかかり、高島屋の1周年と2周年キャンペーンのお仕事を受注した。
 
 
「気持よく仕事ができて、記憶に残っているお仕事でした。デザイナーの方にも嬉しい感想をいただいて、その後も東京から連載のお仕事をいただくなど良いことが続きました。もちろん営業もしていますし、大変なお仕事もたくさんやった上でのことです。」
 
 

JR名古屋タカシマヤ1周年キャンペーンイラスト

 
“JRのコンコース巨大コルトンはじめJR一帯柱巻き広告、ポスター、新聞全面広告
ショッピングバッグなど店内一帯ピンク色に染まっていたのがうれしかったです。”


 
週刊朝日連載イラスト

 
“毎週本屋さんに並べられやりがいがありました。”


 
 
ここまで、”イラストレーター”山内三貴子についてお話を伺ってきた。山内さんがあえて”作家”ではなく”イラストレーター”を名乗っている理由。それは仕事としてクライアントの要望に応える絵を描いてきたからだという。
 
 
「作家という言葉に違和感を感じていたんです。私はイラストレーターで、クライアントありきで依頼された仕事をこなす、制限された内容の中で最大限自分の力を出せるようにという姿勢で絵を作ってきました。自分の思いを絵にして広く知ってもらうことが作家だとするなら私は作家とはちょっと違うかなと思うんです。」
 
 
最近はお客様に”飾っていただく絵”という広告とはまた異なる目的の絵、いわゆる”作家”としての活動にも目を向けている。
 
 
「ある方の紹介を受けて、海外のコンペに出すようになったんです。作家活動ですね(笑)きっかけはFabriano Watercolor Festivalというアートフェスティバルです。イタリアのファブリアーノという有名な製紙の産地で行われている町をあげての水彩画の祭典です。町中の学校や美術館、教会など色々な施設をギャラリーに変えて世界中から集まった名だたる有名な水彩画家がデモンストレーションやワークショップを開催するので、水彩画愛好家たちがドッと押し寄せます。今(2021年6月現在)私の作品も現地に行っています。このお祭りをきっかけに海外の皆さんと知り合いになったことでコンペに出してファイナリストになったり名誉賞をいただいたり。収入には結びつかないけど、生き甲斐です。自分の作風を様々な人に見ていただく絶好のチャンスですね。」
 
 
 
ファブリアーノ初出品作品

 
“海外なら日本的なものと狙いました。日本展示館のトップに展示されていました。”


 
 

 
“フランスピレネーインターナショナルコンペにて知り合いのお嬢さんウナちゃんを描きました(偶然にも彼女は小学校の後輩サン)”

 
 
水彩画の魅力や楽しさを広めていくことを目的に開催されているFabriano Watercolor Festivalの思いを受け継いで、今後は日本各地でワークショップを開催していきたいと語る。
 
 
「手始めに娘がいる横浜、そしてお誘いいただいている大阪でやりたいですね。イラストレーターからはずいぶんずれてきていますが、やっぱりずっと同じスタイルでやっていくのは不可能なので、その時代時代で自分の姿勢を変えていく必要もあると思います。」
 
 
普段は創作活動の傍ら、教室も行っている。
 
 
「最初は教えるなんて…と思っていましたが10年以上やってようやく身についてきた気がします。教えることイコール自分が学ぶことですね、まさに。自分がやってきたことが線で結びついたことを実感しています。例えば昔自分のためにやってきたクロッキーが、今は学校で教える側にまわっているのは奇跡みたいなものです。少しは私も恩返しと貢献とか社会貢献ができるかな、と。」
 
 
イラストレーターとしての顔を長らく貫いてきた山内三貴子。
彼女から「仕事」という概念を差し引くと、ありのままを表現する作家、そして培ったノウハウを後世に伝える伝承者の姿があった。
 
 
 
 
山内三貴子にとって“アート”とは?


 

「空気みたいに必要不可欠な心の栄養ですね」

 
 
 

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