生まれも育ちも東京の下町、浅草。実家は仏具や神具、太鼓神輿の製造販売を営み、幼稚園も仏教系。散歩コースの先には浅草寺があり、必ずお参りをして帰っていた子供時代。
日本文化に触れてきた布施さんが、どのように西洋の宗教画を探求することとなったのか。中学から女子美術大学の付属校に通い、女子美術大学芸術学部絵画科洋画専攻を卒業している。
「小さい頃から絵が大好きで、幼稚園のときに近所のこども絵画教室に行きたいと言って通わせてもらいました。小学校になると、中学受験をしようと思って勉強をしていたんですね。偏差値で優劣が決まる時代だったので普通の女子校に行こうと思っていたのですが、両親の勧めで女子美術大学の付属中学を第二志望として受験しました。私としては中学から絵に特化した学校に行くのはどうなんだろうと思っていたのですが、第一志望が落ちてしまいまして。そうして女子美に行くことになりました。今思えば良かったです。きっと親から見たら、無理して勉強しているように見えたんでしょうね(笑)キリスト教美術に惹かれて大学は油絵を専攻しました。」
中学から専門性の高い美術の世界に身を置いた布施さん。周りはデザイナーや彫刻家、研究者を親に持つ生徒が多く、下町の商店出身者は珍しかった。絵が好きな人ばかりが集まり、好きなことに没頭する学生生活は実りあるものだったが、大学の頃から絵を描いて生計を立てていくのは到底無理だと感じた。
「絵は趣味で続けていくことにして、美術系の出版社に就職しました。でも、10年間美絵のことしかやっていなかったので、いわゆる世間知らずといいますか、挫折しました。若いから当たり前なのですが、仕事内容もあまり面白くなくて、上司の女性ともうまく付き合えなくて…電車の中でポロポロと涙が出てきたときにもう限界だと感じて、2年目で退職しました。」
この退職が転機となった。
会社員勤めのときから趣味として習っていたテンペラ画への興味が尽きなく、テンペラ画発祥の地、イタリアに渡って1か月見て廻るなど、自身を取り戻していく。絵の講師のアルバイトをしながらテンペラ画教室に通っては勉強して、模写をする日々。
しかしこれほどまでにテンペラ画に惹かれることになったのはなぜなのだろうか。
「実は大学のときに“テンペラとは?”をかじったのですが、そのときは何とも思わなかったんですよね。でも気持ちが荒んでいたときに昔の美術書を見ていたりすると、歴史の最初のほうに出てくる西洋美術が目に留まりました。それまでは自分の個性とか表現とか、自分を出すことに一生懸命だったのですが、宗教画って自分を出すものではなくて、神さまの教えを伝えるための絵なので素朴で実直なんです。芸術とはちょっと違うのかもしれませんが、我がないところが絵として良いなと思いました。個性を追求することに疲れたというのもあったかもしれません。」
中世イタリアの古典技法であるテンペラ画は、多くの人が字を読めなかった時代に、キリスト教の教えを伝えるために職人によって描かれていたものとされている。また、祈りを捧げる際の祭壇画としても使用されていたことから、テンペラ画に求められるのは個性ではなかった。
「私が描いた絵が“お守り”になってほしいという思いがあります。と言ってもそんな大層なものではなくて、神社やお寺が多いところで育ってきたということもあってか、絵にも祈りのパワーがあると思っています。人を慰めるような、目に見えない力があるんじゃないかな、と。」
最初は、布施さん自身の心を救うために描いていたという絵。しかし、自身が救われているということは、その絵で誰かも救われるのではないかと考えるようになった。「ささやかな願いですけどね」と語る。
ここ数年は具象画だけでなく、抽象画にも挑戦している布施さん。具象も抽象もベースとなるテーマは「祈り」だ。