友達がいない、1番になれるものがない。
絵だけが自分に自信を与えてくれた絵を描き始めたきっかけはなんですか?
他の勉強があまりできなかったけど、絵だけは多少。。よく写生会とかあるじゃないですか?それで賞をもらって、先生にも褒められて。褒められると人って伸びるじゃないですか(笑)ただ銀賞、銅賞は取れるんですけどどうしても金賞は取れなくて。うまい人たちに負けて、それが悔しくて逆に一生懸命になれていました。
なかなかNo1になれなかったと。
なれなかったですねぇ。
小さいころから引っ込み思案で、転校も多くてなかなか友達もできなくてその中で一つ「絵」というものが、自分のアイデンティティとまではいかないまでも、自信を与えてくれたものでした。
本格的に絵を学んだことは?
振り返るとそのような機会は無かったかもしれません。
一応、高校はデザイン科を受験したので自己表現を出来る可能性の高い学校に入学しましたが、その中でグラフィックコースを選択したので、絵を描く時間より商業デザインに必要な技術を学ぶ授業が多かったんです。
なので当然、将来画家を志すきっかけになるような表現をする時間は殆ど無かったですね。無かったんですが、卒展の時大きなポスターを描くのが決まりだったんですけど、突然(僕が)抽象画を描いてそれを卒展に出したんですよ。先生に怒られるかなと思っていたら先生も面白がってくれて、それで賞を頂いちゃったんですよね。
その抽象画なんですが絵本的なポエジーな要素も含まれている不思議な絵でして。
なぜ突然絵本的な要素が?
実はそのころ長新太さんや中島潔さんに憧れて絵本作家になりたいと思っていたのです。そこで卒業後に、当時東京と大阪の二校しかなかった絵本の専門学校があることを知って、郷里に近い大阪に行くことになりました。
絵本の専門学校ですか。
そうですね。
一通り絵本に必要なプロセスや感性の磨き方、絵の描き方を教えてくれたので、望んでいた授業は受けれたと思います。
またその学校では卒業制作に1冊の絵本を、製本も含めて一から創るという課題があるので、そういう意味では一つの形にはなるのですが、出来上がった絵本を通じて直接出版社を紹介してくれるわけではありませんし、プロでも絵本一本でやっていくのは難しい世界なんだよと先生に言われながら授業を受けていました(笑)。
ただ、卒業前に大事な出会いがありまして。
専門学校の在学中に京都の大丸でホアン・ミロという作家さんの回顧展を観に行ったら、一枚の絵が持つ力にしびれちゃって、涙流しながら会場をぐるぐる回っていたんです。それから1冊の絵本で完結するのではなく、表現したいものを一枚の絵で完結させたいと思ったんです。それが専門学校の卒業制作の直前の頃だったんで、出品する作品を作り直したりもしました。
なんだか全てがうまくつながっている生き方をしていますね
それでまたさらに一つ影響ある出来事がありましてね(笑)
卒業制作作品でいよいよ初めて金賞を取ったわけですよ。
初めての金賞!!
はい、前の学年までは金賞を取ると3,000部学校から出版されるおまけがついていたんですよね。
3,000部もあったら出版社に配って営業かけることもできるし、一つ指針として作家への道が開けるじゃないですか。ただ、私の代からバブルのあおりを受けてそれがなくなってしまって(笑)
3,000がゼロですか?
もう、、、賞だけ、、(笑)ちょこっとした絵の具セットになりました(笑)
こんなんいらんわ、みたいな(笑)
まぁ、ショックの傍ら改めて自分は「1枚の絵でいかないかんのやな」という気持ちが芽生えてきました。
じゃあ、それから絵画の道に進んだと?
まぁ、全然アカデミックな勉強をしてきたわけではないので、ただ好きなように描くというのが数年くらい続くのですが、、、でも食わないかんし広告デザインの仕事とか色んなバイトをしながらでしたけど。19歳で卒業して22,23歳までは居候したり、流浪の生活をしながら絵を描いていましたがこれじゃいよいよ食えなくなって、、、
住むところがあったのと、手を動かす面白そうな仕事だったので、淡路島の石材屋に人生で最初で最後の正社員として入りました。けど結局半年ばかりでお世話になってた若社長とけんかして、絵の道で行くんや!って啖呵切って辞めてしまいました。
とは言っても、もう生活が破綻してしまっていたので、愛媛の実家に帰って恥ずかしながら親のスネをかじりながら体制を整えざるを得ず、肩身の狭い生活を送っていましたが、それから1年後くらいに地元のギャラリーが
「25歳までに借りたら賃料半額にできるよ」
と言ってくれたので、その数年描き溜めた作品を発表しようと早速申し込みに行きました。
それが人生初の個展です。確か24歳の時の出来事でした。
「画家としてやっていく」と決めた
覚悟の瞬間※右作品は「日替わりの絶望にさらされし心」(1996年)
その時から画風は今のような感じでしたか?
いやもっとぐちゃぐちゃ抽象的で、、、片鱗はありましたけど。
それが幸運なことに地元の美術館の学芸課長さんが「面白いやつがおるで」ってことで、色々な人に言ってくれたり、地元のキャリアのある画家さんとかに見初めてもらったりして。
価格も安かったからなのか、よう売れたんで「お、わしこの世界でやって行けるんちゃう?」ってなって(笑)そのまま調子に乗って今に至ります(笑)
オーガさんの作品は1枚1枚ストーリーがあるように見えますよね。
夜のはじまり(三浦美術館収蔵)
サイズ:1167mm✕1167mm
号数:F 50号
【作品紹介ページ】「○○シリーズ」みたいに何かを続けて描くことがないので。
お客さんにもよく「ストーリーがつながっているんですか?」って(聞かれます)。時系列もテーマもバラバラなんですけどね。ただやっぱり源流にあるものが絵本なので、そのルーツの影響はあるのでしょうね。
最近もうすぐ2歳になる娘の影響なのか、いつになく可愛らしい絵も描いてしまって、自分でも戸惑いつつでもあるんですが(笑)
僕は直接的に人間を描くのが苦手で、これまで人間が出てくることはあまりなかったのですけど、今年はちょっと出ちゃいましたね。
北の夕空
号数:S10号
【作品紹介ページ】イメージ的にはお子さんを描いているのでしょうか?
恐らくそうなんでしょうね。
それまでは鳥の頭をした人間が多く登場してきました。表情のある人間を描くのが照れくさかったのか、無表情な鳥人間が長らく作品の中で主役を務めていたんです。
この画風になったのは割と最近ですか?
いえ、絵の具に転向した10年くらい前からですね。
それまでは、ずっとソフトパステルを使って具象と抽象の中間的な絵を描いていました。前述した初個展の会場で3回くらいお世話になって、その時期に今もお世話になっている同じ愛媛県にあるギャラリーのオーナーと出会い、画家とはなんぞやという自身の骨格となるようなことを数年にかけてご教授くださって、自分の画風も徐々に固まってきました。またその時期は、画家として何を描いて行ばいいのか、自分への問いかけと発見のある大事な時間となりました。
ただ、技術的にも精神的にも自分の描きたいものに手が届かないもどかしさは常にありましたし、それは今も続いています。永遠の課題かもしれませんが。
初個展あたりからは絵で生活できるようになったのですか?
いやぁ~とんでもない。
そのころに結婚もしたのですが、号単価1万円もせぇへんような格安価格でしたし、あちこちで個展をしていた訳でもないので、当然ながら2足のわらじを履いていました。それでも30歳になってすぐくらいですかね、初めて画家として確定申告をしたんです。
また、変な話なんですが当時小さな町に住んでいて、確定申告の書き方を教えてもらいに行った時
「ご職業は何ですか?」
と聞かれたので、
「画家です」
と答えたら
「あー画家さんなんですか!無職ですね」
って言われて(笑)
「税金納めに来たのになんやねん!」ていう(笑)
世間のイメージってそういうものなんですよね。その間に子供も生まれ、いよいよ画家として生きるという暴走人生が始まり(笑)と同時に愛媛のアートシーンを盛り上げたいという想いもあったので、作家の有志を集めてアートショップとカフェを併設するようなギャラリースペースを創ったりして、ほとんど家庭を顧みない生活が2年位続きました。
それが30代前半の頃になりますが、画家やお店の活動に加え、夜勤の仕事でヘトヘトになってた上に家のことも色々あって鬱で入院もして、最後には離婚もしちゃったりもして。
その反動もあってか34~37歳の間はめちゃくちゃ絵を描いてました。
36歳の頃だったかな、東京で絵でしっかりと生計を立ててた先輩作家と会う機会があって
「いっぺん東京に出てこいや」
って言われたのです。
本人は酔っぱらって覚えてないそうなんですが。。。
それで40歳を前にもう一度勝負をかけてみるか!と思って。
引っ越しをしたということですか?
はい、アトリエも移して。当時支えてくれていた女性も愛媛に置いて出てきました。彼女は会社を持っていたので。
それでまずは例の先輩作家さんが企画してくれたグループ展に参加をしつつ、企画で個展をしてくれるギャラリーさんを探していました。東京に出てきた時自分に課していたのは、
”絶対にバイトはしない”
ということ。
覚悟が決まった瞬間ですね
幸い、浅草の画廊さんが声をかけてくださって企画展につながって、同じくらいのタイミングで京都の画廊さんが買取契約をしてくれて。
なんとか最低限のお金は手に入れられるようになりました。それからは色々な画廊さんとお付き合いを重ねて、有り難いことに今は2、3年先まで(展覧会の)予定が入るようになってきました。
当時嬉しかったことがあって、僕が(東京に)旅立つ直前に郷里のギャラリーで個展開催の準備をして頂いていた時のお話なんですが、前述した京都の画廊のオーナーさんが展覧会にいらして
「こんな人おったんかね!これ全部買わせてくれ!」
とギャラリーオーナーに言ったそうなんです。
ただ、個展の準備中の出来事だったので、
「大変嬉しいお話ですけど個展前なので全部は勘弁してください」
という話になったそうなんですが、結局8点くらい購入してくれたんです。僕は現場にはいなくて、この話は後から聞いた話だったんですけどね。
歴史ある全国スケールの画廊のオーナさんとの、絵に描いたような素晴らしい出会いに大きな自信を頂戴しましたし、こんな右も左も分からんような自分を認めてくれたことに言葉にできない感謝の気持ちで一杯になったことを今でも忘れられずにいます。
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「オーガ部屋」を始め”コレクターと創る”
オーガフミヒロの作品哲学休日など絵を描いていないときは何をしていますか?
毎年、春が終わる頃から制作と営業で休みなく動いているので、1、2、3月は鬱状態に入って集中力がなくなっちゃうんですよね。その時期は描いてもロクな作品ができないので、強制的に休んだり1年分のキャンバスを貼るなど、絵以外のことをやっていますね。お酒と音楽と本とに浸りつつ。。。外に出ても寒い時期じゃないですか(笑)
家ではもっぱら焼酎かワインですけど、外では日本酒が良いですね。
本は歴史ものが好きで、司馬遼太郎はほぼ読破しています。あとは司修さんのエッセイ集とか旅行記ものとか。若い頃は太宰治とヘルマン・ヘッセに壇一雄とか。。。旅がしたいんですが、なかなか時間がなくて。
絵は結局誰かに弟子入りしたりして学んだのでしょうか?
していないですし、独学ですね。
影響を受けた画家などは?
ホアン・ミロ、パウル・クレーとか有元利夫、司修さん、あとは愛媛の作家なんですが安藤義茂とかですかね。
絵を描いているときお子さんは近くにいたりしますか?
一切アトリエには入れないです。それもあって引っ越しをしたんですよね。アトリエに入って絵の具を間違って食べてしまってはいけないし、リアルそのものでしょ。こどもって。
部屋の中にリアルが入ってくるのが嫌なんですよ。写実的なものを見て描いているわけではないのですし、空想の世界を大事にしたいので。
今までで一番つらかったことは?
生臭い話ですけど、絵の具を買うお金もなくなった時かな。
限りなく食費を削っていても、どうにもならないことってあるんですよね。関東に移りたての時はよくあったし、震災の年は展覧会がいくつも中止になってしまった時もです。
首の皮一枚のところでギリギリ1枚売れたこともありましたけど、土下座して何とか買ってもらうこともままあったし。自分でバイトせぇへんて決めてしまいましたからねぇ。
駆け出しの時は数を描かないとクオリティの高い絵も描けないんですよ。バイトしてしまったら・・(描ける数が限られてしまう)あと、数が揃ってないとふっと湧いた展覧会の話に応えられないでしょう。
販売点数を安定させるためには一定数のリピーターが必要かと思います。
オーガさんにもリピーターさんは結構いらっしゃいますか?
いますね。
私が展覧会を日本のあちこちでやっているので、どの会場にも顔を出されるような方は少ないですが回数重ねている場所なんかでは僕の作品を購入するために再就職をして、「オーガ部屋」なんていう部屋を作ってくれたりなんかして。
7、8枚ほど絵をお持ちの方が10名近くいらっしゃったりするギャラリーもありますね。
オーガさん自身の作品で最も気に入っている作品ありますか?
僕は、作品をアトリエから出した瞬間から自分の作品に興味を失うんです。
絵が本当に輝き出すのは購入してくださった方が、ご自宅に飾ってからだと思うんですよ。
なので僕は絵を7割程度で描き止めて、観る手の想いが入る隙間が出来るよう意識しています。想いがその隙間に入ってゆくことで、作家の手を離れた後も絵が育ち、より輝くと思うんです。
実際にコレクターさんのおうちに遊びに行った時、数年前に買ってもらった作品が壁に飾ってあって本当に自分が描いたものなのかな?と思うくらいに絵に変化を感じたことが何度もありました。
当然何か手を加えたわけではないんですが、やっぱり絵って育つんですよね。だからこれといって(特別お気に入りという絵は)ないかなぁ。
直近の予定を活動予定を教えてください。
2月のはじめに西武福井店での個展、
5月後半にBunkamuraで個展、
9月に愛媛のギャラリーかわにしで個展
10月に福岡のみぞえ画廊で個展、
11月は二本あって川田画廊とGALLERY HANA SHIMOKITAZAWAで個展
12月浅草のギャラリーアビアント
最後にこれから挑戦したいことなどあった教えてもらえますか?
とある映画関係者とやり取りさせてもらっているんですけど、自分の絵を素材とした短編映画の仕事を実現したいですね。その方は海外との繋がりもあるので、国内外問わず幅広い人に評価していただきたいです。
詩画集 夜鳥の手帳
著者 : オーガフミヒロ
発行 : 2016年4月9日
サイズ : 530×666mm
編集 : アート空間ヒカリデザイン
発行者 : ギャラリー枝香庵 出版企画部
【ご購入はこちら】
松谷みよ子著
「現代民話考12巻」
※オーガさんが表紙画を制作
よるの大学
号数:F 8号
サイズ:410mm×410mm
技法:アキーラ
価格:160,000円(税抜)
【紹介ページはこちら】
冬の鳥
号数:S10
サイズ:530mm✕530mm
技法:アキーラ
価格:200,000円(税抜)
【紹介ページはこちら】
僕は絵を7割程度で描き止めて、観る手の想いが入る隙間が出来るよう意識しています。想いがその隙間に入ってゆくことで、作家の手を離れた後も絵が育ち、より輝くと思うんです。