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Interview: 浅野輝一

美術に親しむために「学校をあげて美術館に連れて行く。」これに尽きます。

簡単に自己紹介をお願いします。

1943年、桜で有名な奈良県の吉野の近くで生まれました。郷里の先輩には、漫画家の楳図かずおさんや彫刻家の山縣寿夫さん等がおられます。

 

奈良県は美術の教育が盛んですね。

そうですね、歴史のある町なので芸術に対する想いは強いと思います。小中学生対象の写生会や展覧会などが盛んに行われていましたね。私も毎年、何回か参加していました。

 

どうして画家になられたのでしょう?

子どもの頃、私はいつも何かおもしろいことはないかと探し回り、いたずらばかりするような子でした。困り果てた母が、近くに住む絵描きさんに「どうしようもない子ですが、絵が好きなので、一度教えて貰えませんか。」とお願いしたそうで、それが絵を描き始めたきっかけでした。小学校2年生の時です。
大人からはしょっちゅう怒られてばかりでしたので、ここでも怒られると思い、最初は逃げ回っていましたね。でもやってみたら「君は面白いね。絵は〝勝手に描く〟それでいいんだよ。」と言われました。春陽会の会員だった平田峻三先生という方です。

当時の私にとって、褒められたのは初めてみたいなものでしたので、からかわれたのではないかと疑ったくらいでした。
平田先生は何かを教えてくださるというよりも「じゃあ描きな」というスタンスでした。
学校では、4年生の時の担任の先生が「人間はみんな顔が違うように、あなたはあなたでいいんだよ。」と言ってくださったことがあり、大きな影響を受けました。
当時は戦後間もない頃で、軍隊から戻ったばかりの先生が多くみんな怖かったのです。そんな時代に、「あなたはあなたでいい」なんて言ってくれる先生は初めてで、「僕は好きなことをやっていいんだな。」と思うことができたのです。その時のことが「子どもは褒めて育てる」という教育者としての原点に繋がっています。

中学に行くと美術の先生が応援してくれて、さらに奈良県立五條高校では、独立美術協会に出品されていた花野五壌先生に大変お世話になりました。
高校卒業後の進路を考えるにあたって、私は絶対に東京の美術学校に行くと決めていたのですが、親からは反対されました。おそらく周りから「画家なんて、将来どうやって生活するんだ。」と言われていたかと思います。田舎なのでね。
最終的には親も応援してくれて、武蔵野美術大学に入りました。

大学を出た後は、美術の先生になろうと思って川崎市の学校の教員になりました。小学校の先生が足りない時代でしたので、突然担任を任されましてね。公立の小学校でしたからとても忙しかったのですが、子どもと触れ合う時間がすごく楽しくなってしまって、このまま教員をしていていいものなのか悩みました。本来、絵描きになりたかったわけですから。
公立学校を4年間で退職したものの、時間ができても筆はそれほど進まない、何を描いたらよいのか分からない、描けないなら絵はやめようかなと思うこともありました。
そんな折、大学の同期生で同じような考えをもつ連中でグループを組んで展覧会をしようという話になりました。
そのグループ展を観にこられたある方から、「君の絵は荒れているね。これじゃあ絵描きにはなれないよ。精神を立ち直らせないとだめだよ、こんなの絵でも何でもない!社会と繋がっていないといい絵は描けない。もっと高度なことを考えないといけないのが芸術家だ。」と言われ、大きなショックを受けました。
その方が、現在私が理事長を務めている清明学園の美術の教員をされていて、次の年にヨーロッパに行くことが決まり退職するので、自分の代わりに美術の教員として清明学園に来ないかと誘ってくださったのです。これにより、清明学園との長い関わりができました。

 

再び教員の職に就かれていかがでしたか?

忙しくてね(笑)。お酒も好きで、当時は飲んで帰ると絵を描くことがなかなかできなかったのですが、この学園の創立者の精神に心から惹かれました。
非常に自由で、子ども中心に物事を考える方で、「世の中にこんな考え方を持っている人がいるのか。」と感動し、ここでやっていく決意を固めたことを覚えています。今絵を描けなくても、何かヒントにできるだろうと考えて、初等部の美術の教員としてスタートしました。

 

どういった経緯で理事長になられたのですか?

初代理事長は創立者の濱野重郎先生、次にその娘さんである濱野富美子先生が理事長職を継がれていたのですが、ご高齢でお亡くなりになりました。
私は、お世話になった学園に私なりにお返しをさせて頂いたつもりでしたので、学校を辞めようと思っておりました。本来の仕事は絵描きですから。
でも50年近くこの学園に関わってきたこともあり、理事会で推して下さる方もおられ、はじめはお断りしたのですが熱心な説得を頂いて、最終的にお引き受けすることにしました。

 

これまでに79回も個展を開催されています。教員の仕事の影響で画業に集中できなかったことなどはありませんか?

私は今まで教員の仕事を嫌だと思ったり、マイナスに感じたりしたことは一度もありません。却って子どもから毎日勉強させてもらっていると思っています。
だから、私の絵は他の絵描きさんが描く子どもとは異なっています。もちろん子どもは可愛いと思いますが、それだけではありません。子どもは辛辣で、言いたいことを言って悪いこともやります。でも純粋です。そこにものすごく憧れます。私は人間の原点は子どもだと思っています。
うちの学校の創立の精神は、「子どもファースト」です。周りには中高一貫校とか、大学まであるような私立学校が多い中、幼・小・中学校だけの学校にわざわざお子さんを預けてくれるのは、「子どもファースト」であることが伝わっているからだと思います。簡単に言うと、マニアックなファンを持っている学校だと思いますね。

受験で生徒を集めるとか、良い高等学校に行かせるとか親もそれを求めていますが、そんなことはどこでもやっています。うちみたいに昭和の初めみたいなことをやっている学校は少ないんですよ。だから子どもに遊ばせる、好きなことをさせる、美術には点をつけない。子ども時代に感性を磨く、頭を柔らかくする、心豊かになってほしい。私は、子ども時代にたくさん悪いことをしろ!楽しめ!とよく言うのですが、それはこういった考えからきているのです。
もちろん、良い大学に行きたいという考えを否定するつもりはありませんが、人生は学校では決まらないと思っています。いかに社会の人に認められるか、つまりはファンが付くかどうかです。絵描きでもそうです。「絵が上手いから売れる」、そんな単純なことではありません。上手い人はたくさんいます。結局、絵を持ちたいと思うのは、絵描きの人間性も含めて総合的な判断で購入します。電化製品のように安ければ良いとか、誰から買っても同じというものではありません。

だから私は、子どもや保護者の方々から学べる点において、他の絵描きよりも恵まれた環境にあると思っていますし、私の制作の支えになっています。学校にいるとすごく忙しく当然絵は描けませんが、その分私には生きる喜びがあります。

 

作品に子どもの絵が多いのはそのためなんですね。

そうです。誰というモデルはありませんが、学校で毎日、体験やイメージをしています。
成績は数字で表すことが多いですが、成績が「5」だからといって、5の子が全て一律に優秀とは限りません。逆に算数ができない子で、成績が「1」の子がいたとする。確かに、算数の問題が解けなければ成績は「1」ですが、見方を変えれば「5」の部分があるかもしれない。「子どもの悪い部分を探すのではなく、良い部分を探してみなさい。」とよく先生方には言います。「自分(先生)の物差しでその子を測るな。この子は世の中に一人しかいないのだから、そもそも比べようがないんだよ。」と伝えています。

電化製品だったら比べられると思いますが、A君とB君だったら何を比べるのかと。共通しているのはただ一つ、生きているということだけ。だから学校に来てやることはそれぞれ違っていても良いのです。むしろ違っていないと面白くありません。そういう考え方をしてこそ、教員の仕事は面白いものだと感じられるのではないでしょうか。
これは私が社会で生きるためのベースとなる考え方なのですが、絵描きでこういう考え方の人はあまりいないかもしれませんね(笑)。

 

はい、珍しいと思います。

でも私は普通だと思っています。だから、社会人になれない絵描きは芸術家とは思えないです。経済を知るとかそういうことではなく、人の話をちゃんと聞くとか、世の中は今こんな動きになっているとか、少しくらいは分かっていないと。
どんなに絵がうまくても必ず絵描きになれるわけではない。逆に下手でも絵描きと言えば絵描きですし、どんなにすごい人でも裏を返せばものすごい悪い部分があるかもしれない。だから絵がうまいだけの絵描きは私は良いとは思っていません。
絵描きとしてうまくやっていくには画商さん頼みだけではダメなんです。やっぱり画家にファンがつかないといけないのですが、そのためにはやはり人間性や社会性というものが必須条件だと思います。

 

教員であることが絵描きとして助けになったことはありますか?

あります。やはりそれは教え子がいるということですね。
もちろん「絵を買って」なんて言ったことは一切ないです。だけど教え子がファンとして色々な人を連れてきてくれる。応援したいからという意味で作品を購入して下さる方もいます。それも結局は、小さい頃の接し方が今に繋がっているのだと思います。
あとは学校で子どもを見ている時に「この子面白いな、絵にしてみたいな」なんて見ていると、それが作品に投影されることもあります。いわばインスピレーションの宝庫ですね。

 

教育者の浅野さんと芸術家の浅野さんは切り分けていないということですね。

私には芸術家としての自分と教育者としての自分は一緒なのです。絵を描いている時も学校にいる時も、飲んでいる時も(笑)、いつも同じです。
芸術も教育も結局人を創っていくのですから、本質的には同じと考えています。
一般的な校長先生は、教育者としての立場でしか話ができない方が多いのですが、私は芸術を通して物事を見ているから発想がやはり違います。
学校の会議などでも、いいことを言っているけどあまりにも教科書的で常識的すぎる内容に「他の学校の先生でも同じことを言うだろう」と指摘することがあります。

 

学校での美術教育についてはどのように考えていらっしゃいますか?

まず美術の先生でご自分が制作をしていない人は採用しません。また、どこかの美大に入れたいとか、入学させるよう先生にノルマを課したりなどは一切したことがありません。それよりも「〝絵というのはこんなに面白く素晴らしいものである〟と子どもたちに教えてあげてほしい。」と美術の先生にはお願いをしています。というのも、9教科ある中で美術だけが答えがないものだと考えているからです。だから成績はつけられないと。もし成績をつけているとしたら、それは先生の感性で付けていることになります。絵のうまい下手や、色の綺麗汚いなどは先生の小さな物差しで測っているにすぎません。

 

子どもたちにより美術に親しんでもらうためにはどうすれば良いとお考えですか?

学校をあげて美術館に連れて行く。これに尽きるのではないでしょうか。
私なんかは自分の展覧会がある時にDMを渡して、「見に来てね。」と言う時もあります。とにかく本物に触れさせるということです。

 

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浅野輝一

【1966年】 武蔵野美術大学造形学部 卒業
【2012年】 「絵画・平面の現在と地平」展 ギャラリー暁(銀座)
【2013年】 平林アートコレクションびじゅつ空間・輝 回廊記念展(大船)
【2014~2018年】 響展(美術文化と新世紀のコラボ展)ギャラリー暁
【2015年~】 美術文化の作家展 銀座ギャラリー向日葵(銀座)
【2016年】  画廊の10周年記念展 ギャラリーモテキ(富岡)
【2018年】 浅野輝一自選展 銀座ギャラリー向日葵
【2018年】 六月の宙7人展 ギャラリーモテキ(富岡)
【2019年】 浅野輝一作品集出版

学校法人清明学園 理事長
美術文化協会 代表
(社)日本美術家連盟 会員

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