Interview注目の作家

油彩画
中島裕樹
ふとした出会いをきっかけに、仏教芸術の扉を開いた。中島氏は、ただ絵を描くのではなく、"禅"の考えを絵画に巡らせつつ、モチーフそのものではなく、その周りの"空気感"を表現する独自の芸術を追及し続けている。理想の絵を描き上げることではなく、そのイメージの完成に向けて試行錯誤する ”過程” そのものに価値を見出し、今もなお終わりなき仏教芸術の追求の歩を進める彼に話を伺った。
「叭々鳥図」 作:牧谿 中島氏が最も好きな作品
芸術との出会いについて教えてください。

高校入学後に、少し変わった人間と友人になりまして。彼は芸術や文芸に関してかなり関心を持った人間だったのですが、家に行った時に海外の展覧会のポスターが飾ってあったのを見たんです。その時ですね、初めて芸術作品に出会ったのは。非常に印象深かったのを今でも覚えていまして、それから絵を描き始めました。

そして、芸術との出会いに関して言えばもう1つ。大学入学後に初めて京都や奈良を訪れたのですが、そこで「仏像美術」に出会い、はっきり言って人生がひっくり返りました。これが本当に自分のやりたいことだと感じたのです。大学は法科に入りましたが、結局1年で中退して、仏教美術の道に進む決断をしました。

京都に知り合いがいたので、そこでアルバイトをしながら絵の勉強に励みましたが、1年も経たないうちに知り合いの水墨画家から『どうせ絵を描くのであれば東京に出ろ』と背中を押され、21歳で上京して本格的にこの道を歩むことになりました。

「柿図」 作:中島裕樹
仏教芸術の道を歩む決意をされた中島さん。どのような想いで日々の創作活動にあたっているのでしょうか。

上京を勧めてくれた京都の水墨画家は芸術論というか、絵画というものに関する基本的な考え方が”禅”に関わる考え方でした。京都にいる間もほとんど毎日のように話に行って、絵とは何か、なぜ人間は絵を描くのかといった、技術的なことではなくもっと根本的な質問を投げかけていました。

ですから、上京して自分一人で絵を描き始めても根本にある禅的な考え方、宗教的な考え方が私の基本的なスタンスになっています。『絵を描く』という行為ではなく、ある意味哲学的な追求という形での創作活動なわけです。画家として生計を立てることを否定するわけではないのですが、それはあくまでも二次的なものであり、絵が売れる売れないということは全く別の話だと思って、活動をしています。

主にどのような作品を中心に手掛けていますか?

基本的に、水墨画としての油彩画を描きます。モノトーンではないんですけれども、あまり色を使わない油絵も描きます。ただ、私自身は手法自体にさほど重きを置いてはいません。例えば風景画を描く時、山や川などの風景があるけれども、私自身は山そのものではなく、その周りの空気や空間を描きたいわけです。

ですから、花を描くにしても、花を描いているのではなく「花がある空間」を描きたい。言ってしまえば、”絵画とは抽象画” だと思っているんです。本当に表現したいものは、描かれたモチーフもさることながら、周りの余白=空間だと思っていて、その空間はさらに哲学的な言い方をすれば、物事の本質につながっているものだと思うんです。分かりにくい表現だとは思いますが、空気・空間・存在そのものを描きたいと考えています。何を描くか、モチーフにするかということは、私にとってさほど重要ではないですね。

「アジサイ」 作:中島裕樹
言葉にするにはやや難しい、概念的な芸術というところでしょうか。

そうですね、少し前に紫陽花の絵を描いたのですが、それもほとんどモノトーンで、形も少しぼやかしているんですよ。葉の位置など、形をくっきりと描いてしまうとそれは ”紫陽花の絵” になってしまいますから。紫陽花の周りの空気や雰囲気を私は描きたいと思っています。

ですから、描く時に写真などを見ながら描くことはほぼありません。その実物に囚われて引きずられてしまうので、ある程度自分の中でイメージが消化され、自分なりのイメージを形作った状態の方が描きやすいですね。実際に紫陽花の写真を撮ったりスケッチしたりすることはありますが、それをしばらく放っておくと、紫陽花が自分なりにデフォルメされてくるというか、自分のイメージにあった紫陽花に変貌してきます。それを絵にした方が、表現に結びつきやすいということでしょうかね。

今後の抱負などはありますか?

今後やっていこうと思うのは、モノトーンの画に少し色を入れたいなと。色を使いつつも水墨画の精神性を表現しつつ、矛盾なく一つのまとまりとして表現できるか、今はその課題に取り組んでいます。
色を入れると、画が壊れてしまうんです。色を一切入れなければまとまりが出るのですが、そこへ色を入れると現実に引き戻されるというか…。それをうまく調和して、一枚の絵画として表現できればと思っています。

私は、今の私自身の芸術には全然満足できていません。これは先生に言われた言葉ですが、絵というものは画家の描きたい気持ちを描くものなんです。一番それが旺盛なのは子どもの絵です。子どもの絵は、はちゃめちゃで生命力に満ち溢れている。そして見ていると、なぜだか楽しくなる。それは子どもが描いて嬉しいという”気持ち”が出ているからなんだと思います。しかし、年を取ってくると、なかなかそんな純粋な気持ちは出てこないものです。どうしてもまとめてしまおうとか、頭で絵を描いてしまう側面が出てくる。ですから、いかに子どものような純粋で計算のない気持ちを持てるかが重要だと思っています。もちろん難しいことですけれども…。

目指したイメージ通りの絵を表現できなくても、たとえ答えが出なくても、そこにたどり着こうとする過程がある意味答えだと思っています。絵を描くことに対して、子どもが遊ぶのと同じように楽しめているかということに意味があるんです。「遊ぶ」とはそういうものだと思いますし、何かが得られるから遊ぶのではなくて、ただ遊ぶと楽しいから遊ぶわけですから。だから、どういう絵が仕上がるかという ”結果” は、また違う話なんじゃないかとも思っています。

アートに触れた衝撃を原動力に、今もなお、自身が目指すアートの完成形を求め日々模索しているという中島氏。「”モノ” ではなく “空間” を描きたい」という彼のこれからの作品に引き続き注目していきたい。

インタビュー: 2025/08/16