私の作品は「誰かの日々」でできています。私自身の個人的なことをはじめとし、街にある些細な誰かのものたちが、「気配」として私の作品で形作っています。当たり前に見えるものがよく見るとおかしかったり、知らない景色が過去を思い起こさせたり、そんな曖昧で小さな思考たちが私たちの日々です。私はその「景色に重ねた思考や記憶」を表現しています。
【略歴】 1997年 ・栃木県生まれ 2020年 ・東北芸術工科大学 芸術学部 美術科 洋画コース 卒業 2022年 ・東北芸術工科大学大学院 芸術文化専攻 絵画研究領域 卒業
【グループ展・公募展】 2017年 ・公募展「はたちのりんかく」入賞 2018年 ・銀座WATARIDORI「銀座夏祭り」 ・アートスペース泉 「第6回文字絵展」 2019年 ・ 「第73回二紀展」 2020年 ・日動画廊「第6回未来展」 ・銀座スルガ台画廊「東北のいぶき perche」 2021年 ・GALLERY ART POINT「” Beyond – Covid-19を超えて – ”展」 ・チャイニーズレストラン CAREN「小太刀理予・伊藤百香 二人展」 ・「第74回二紀展」 2022年
「「行く末」」小太刀理予
55,000円
「「透き間」」小太刀理予
37,500円
「「何処かにあった、今もどこにもない景色」」小太刀理予
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「「水際の鏡像」」小太刀理予
185,000円
ファインダー越しに世界を見るのが好きだ。 カメラを持っていることで、世界は「ただの日常」から姿を変えるからだ。
絵を描くときとは違った緊張感がその時には生まれる。 日常から逸脱した「違和感」を切り取って残すには、一瞬しか猶予がなく、引き金を引くかのように、それをフィルムやイメージセンサーに収める。
しかし、「写真」の状態ではまだ形はなく「ただの違和感」にすぎない。 絵筆で思考し絵にすることでその感覚は形になるのだ。
(アクリル絵具、パネル)
ビルとビルの合間。そこは大抵吹き溜まりになっている。 あまり管理されていないであろう剥き出しの配線、草や苔の生えた石、少し飲み残しがある空き缶。
誰の目にも止まらない、あまりにも狭い「そこ」を通り抜ければ、どこかに抜けられそうに感じてしまう。 だが、通れるわけもなく、今日も横目に通りを歩く。
「日常」というのはとても抽象的なもので、「変わらぬ日々」というのは案外ない。
祖父の家みたいだなと思っていた家が取り壊されて今度は新しい家が建ち始めていたり、帰り道の手袋がいつの間にかなくなっていたり。そこにあったはずの人の気配はいつの間にか入れ替わっている。
しかし、当人たちにとってはそう簡単な話でもない。
ずっとその気配をとっておきたいが、時間は流れるから自らピリオドを打たねばならない。
感情や思いは絶えず変化する。
これは何処かにあった、今もどこにもない景色。
(油絵具、アクリル絵具、パネル使用) ※パネルは3枚連結で1枚になっています
子供の頃、子供たちで集まって、廃材や部品が落ちているようなところでよく遊んでいた。 ガラス片を拾って宝物にしたり、木のみをすりつぶして何かを作ったり。
今もそう言った場所があると自然と目がそちらに向く。しかし、大人になってしまった今は「何にもならないもの」で遊ぶのは難しいだろう。
そうだとしても、大人は「それ」を見てしまうのだ。
(油絵具、パネル)