「私が殺した」その罪悪感と歯止めの効かない好奇心が制作を続ける原動力となっている。
小学6年生の頃のこと。ずっと一緒に暮らしてきたうさぎを「この大切な存在の子どもが見たい」とそのうさぎが高齢になったのにも関わらず交尾をするよう仕向けた。結果、大切な存在は死に、生まれた子どももまとめて死なせてしまった。
この出来事が昔は誰にも言えず、自分の内側に留めておくこともできなかった。
自分の罪を忘れないように、罪人を少しでも呼吸ができる生き方が絵を描くことだった。
あの日からずいぶん月日が経った今、あの子たちを埋めた場所の土や石、そこから生えた植物を画材にしている。さらに、大切な存在達を養分としたもの、体を構成していた物質はあちこちに散らばっただろう。それを近くの山の生き物は食べたかもしれない、そう思い、山で暮らす生き物の骨を猟師さんからいただき絵の具にしている。
殺したことを悔いておきながら、失った者とまだ一緒に生きたくて他の生物の生を奪って描いている。
だか、制作の中には罪悪感だけでなく、自然の美しさ、畏れ、科学の面白さ様々なものに触れることができる。大切な存在から世界を教えてもらい、自分のいる世界の面白さに気づき続け、人間のどうしようもなさに辟易しながら日々を過ごしている。
この大切な存在を用いて画面を作ることはペットロスや大切な場所がなくなって苦しむ方にも需要があるため、自主製作だけでなく受注制作もしている。