【名画を語る~兒嶋画廊 歳時記~】児島善三郎 

夏富士のひえびえとして夜を流す    飯田龍太

 
紀元2600年の奉祝展に国分寺跡の松と桜を描いた『松桜図』100号を出品した後の作だろうと思われます。
日本中が浮かれ上がった後の虚しさが画面から伝わってきます。
 
「蘆ノ湖」1940年頃10号児嶋画館蔵

「蘆ノ湖」1940年頃10号児嶋画館蔵
 
   この年の暮れの大久保泰氏への書簡の中には、個性の没却という言葉が出て参ります。これ以前も後も、飽きるほど通って描いた芦ノ湖 ですが、この絵を凝視していて思うのは、昼と夜の間の僅かな利那の中に視界を遮るすべての反射が忽然と消え、まるで偏光サングラスを掛けて風景を見ているような瞬間が存在するということの実感です。それは宇宙空間から天の川を見るように神々しく、万物生命の耀きを一瞬にして共感できる至福の一時のように思われます。世相は此の頃から、軍国主義者やその賛同者の時空軸と芸術家や自然科学者のそれとが大きく乖離しだしました。軍部に協力して戦争画を描いたもの以外、戦争中の画家はとても惨めだったろうと思います。
 
   碁打ちや将棋指しと同じく絵描きには絵を描くしか能がありません。家の周りの田畑にイーゼルを立てて風景を写生していても、近所の農家 の労働力であった次男や三男は徴用され南洋で戦っています。のんびり田園の写生している絵描きの姿など端から見れば非国民そのもの に写ったことでしょう。そこで、絵を描くこと以外に何もできない男も近所の荒地を借りて開墾し、肥溜めの人糞を肥たごに入れて運んだりしたそうですが、素人が天秤棒を担いでもチャップンチャップンと揺れ動き中身はほとんどこぼれてしまうような有り様だったと父や母から聞いたことがあります。そんな訳で家から離れた箱根や伊豆や信州にまで出かけて行って絵を描いたのかもしれません。掲載の句を詠んだ飯田龍太は俳人飯田蛇笏の四男 で1920年に生まれ、2007年まで山梨県を中心に活躍した俳人です。
 
山梨側から詠んだ富士の句かも知れませんが、この絵の中に流れる、空と山と湖の藍が一つになる瞬間をとても良く表しているように思い選びました。
(2012年7月号)

 

  兒嶋画廊  


国分寺崖線の上に立つ藤森照信氏設計の丘の上APT(トタンの家)において、様々な展覧会活動や地域との共同事業を行う。児島善三郎作品をはじめとする日本の近代洋画、1960〜70年代の現代美術、藍染古布などのテキスタイルアート、縄文土器や土偶などジャンルを越えて私たちの日々の生活に活力を与えてくれる美的鑑賞物を展示販売する。
 
-作品のお問い合わせ先-
〒185-0024 東京都国分寺市泉町1-5-16
Tel/Fax:042-207-7918

 

 

  児島善三郎  

 
治以降の日本近代洋画を代表する作家の一人として、戦前、戦後を通して活躍する。特に「日本的洋画の完成」を目指し油彩画の基本に加え、南画や琳派、浮世絵の研究を重ね、大胆な様式化や絢爛なる色彩を駆使し「善三郎様式」と呼ばれる独自の世界を築いた。初期の人物画から松の木を大胆に取り入れた風景画、中期以降の豪華な盛り花や薔薇の絵など多くの人に今も愛され続けている。
その画業は独立美術協会のみならず画壇全体に大きな影響を残した。
近年は香港や中国のオークションにも優作が出品され、アジアの市場でも人気が高まっている。
 
 
 
 

 
 
■ 全文はこちらからダウンロード可能です。
 

 
 

お知らせ一覧に 戻る

ニュース配信

メールアドレス ※