展示作品
作家紹介
1930年、千葉県東葛飾郡木間ヶ瀬村(現・野田市)の真言宗の仏門に生まれ、仏徒として修業する傍ら、16歳で山本丘人に師事、その後田中青坪のもとで修行。22歳のときに院展初入選を機に「仏道を捨て、絵の道を選んだ」。
画家を志した当初は、東京美術学校(現 東京藝術大学)を2度受験するも叶わず。人物画家志望であったが、師事した田中青坪が所属していた院展で、審査に人物画と風景画の二点を出品したところ、人物画が落選したことから風景画へ舵を切ることになったり、画家としての歩みは挫折感に苛まれたものであった。
風景画家として歩み始めた当初は生まれ育った、埼玉・千葉の利根川や江戸川流域の風景を描いていたが、人の話しに聞く北海道の広大な土地、雄大な自然に憧れていた後藤が、念願叶い初めて北海道を訪れたのは、院展初入選から約10年を経た1960年のことであった。
北海道への漠然とした思慕は、「北国の美しさは冬にある」ことに気付いたのを機に、回を重ねて訪れる度に強烈な希求となり、北海道ならではの美の追求、ひいては自己探求への旅へと変貌を遂げて行き、道内各地への取材は約10年に及ぶことになる。
北海道の自然との邂逅は、寺での貧しい暮らしに耐え、描き抜いて来た屈強な精神を更に強靭に鍛え上げるものとなり、厳しい渓谷風景や岩盤を描くことで、技術的にも様々な技法を試行錯誤した成果は「渓谷瀑布シリーズ」と呼ばれる作品群となり、日本画壇で頭角を現すきっかけとなったものだ。
その後、北海道の「滝シリーズ」が終わり、現在も後藤純男といえば「大和路風景」といわれる五重の塔や三重の塔を主題とした、日本の四季の風景を次々と発表。
この間、文部大臣賞や内閣総理大臣賞等受賞すると共に、1979年には国交回復した中国へ、「現代日本絵画展」代表団の一員として加わり訪れたのを機に、中国をテーマにした新たなる絵画表現への取り組みを始める傍ら、東京芸術大学教授や西安美術学院名誉教授など、後進の指導や、中国で日本画の普及に努めるなど活動の幅も広がりをみせてきた。
東京藝術大学教授として活躍していた1990年には、かつて絵画での自己表現の学びの場であった北海道で、初めての個展が開催され、更に、1995年にはフランス・パリで初の個展を開催。入場者数の記録を塗り替えるなど、2ケ月に及ぶ個展は大盛況の内に幕を閉じた。
院展では日本美術院賞(大観賞)、内閣総理大臣賞等を受賞したほか、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞するなど数々の栄誉ある賞を受賞し、2016年の逝去後も、宗教的荘厳さが漂う作品で日本画壇に比類ない存在感を放っている。
ヨーロッパで学んだ油彩画に日本画の手法を取り入れ、絢爛豪華な色彩と独特のタッチで独自の世界を切り開いた。大正・昭和を通して安井曾太郎と共に活躍した日本洋画界の重鎮である。
1888年、京都の染物問屋、「染呉服悉皆屋」を営む父梅原長兵衛と母かめの末子として生まれた。
15歳で画家を志し、京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を中退すると、伊藤快彦、浅井忠のもとで絵画を学んだが、梅原の人生を決定づけたのはピエール=オーギュスト・ルノワールとの出会いである。
1908年、後に美術史家となる田中喜作と共にフランスに留学し、パリのリュクサンブール美術館で初めてルノワールの作品を目にした梅原はこう言ったという。
「そう、この画こそ私が求めて居た、夢見ていた、そして自分が成したい絵である。かかる絵を見ることが出来てこそ、かく遠く海を越えてここに来た価値があった」
豊穣な色彩のとりこになった梅原は、モンマルトルのルノワールのアトリエを訪れては批評を受けた。このときに、ルノワールの血は梅原に溶け込んだといってもよいだろう。 こうして元々の恵まれた天分が花開き始めた。
翌年、帰国する高村光太郎のアトリエを引き継いでパリに滞在し、アカデミー・ジュリアンに通い、さらにルノワールの指導を受ける機会を得た。知人の有島生馬を通して1910年にはルノワールやパリの芸術についてを雑誌『白樺』に寄稿している。
1913年に帰国すると、白樺社の主催により東京神田で個展「梅原良三郎油絵展覧会」を開催。このとき白樺社同人の武者小路実篤・志賀直哉・柳宗悦らの知遇を得た。翌1914年には二科会の設立に関わる。この年洋画家・亀岡崇の妹・艶子と結婚。二人の間には翌年長女・紅良が、その3年後には長男・成四が生まれた。
1920年には再渡仏し、前年亡くなったルノワールの遺族を訪問した際、再びナポリを訪ねた。噴煙を上げるヴェスヴィオ山の近くで偶然出会った日本人に梅原は「此この美感に桜島の景色が似てゐる」と聞き、その言葉が心に深く残り、13年後、梅原は東京でふと耳にした鹿児島の民謡・小原節を聞いて「長閑な南国の景色が夢みられ、矢も楯もたまらず行て見度なり腰を上げた」とう。それは1934年1月のこと。東京から汽車で20時間以上揺られて初めての九州の旅、梅原の高揚する気持ちが想像される。
その後は、1922年に春陽会への参加を契機に東洋的なものへの志向を強め春陽会の設立に参加し、明快な色彩と日本画家の伝統的な技法を摂取して独自の画境を開拓した。
数年後、その春陽会を去ると、1925年には土田麦僊の招きで国画創作協会に合流し、国画創作協会洋画部、通称「第二部」を設置した。その3年後、第1部である日本画部の解散が決まると、梅原は洋画部を国画会として存続させる決意を固め、その中心人物として日本の美術界を牽引し始めるのである。
1930年代には木版と合羽版(彩色版)の複合版からなる裸婦図を石原求龍堂から刊行した。この時の彫り摺りを平塚運一が担当したかといわれる。
1952年に日本が主権を回復し海外渡航が再びできるようになると、梅原は早速東京美術学校教授を辞任して渡欧、ヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務めた。同年文化勲章受章。翌1953年(昭和28年)に長野県軽井沢町にアトリエを設けた。
1957年には日本芸術院会員をはじめさまざまな役職を辞し、以後は渡欧を繰り返して自由な立場から制作に励んだ。少年時代からの良きライバルだった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め、「日本洋画壇の双璧」と謳われたのもこの頃である。1973年、フランス芸術文化勲章コマンドール章受章
1986年、肺炎による心不全のため慶応病院にて97歳で逝去。「葬式無用 弔問供物 固辞する事 生者は死者の為に煩わさるべからず」と書き残していた。
晩年に使用した吉田五十八設計の東京都市ヶ谷のアトリエは、山梨県北杜市の清春芸術村に移築されて一般に公開されている。