大正ロマンを代表する天才画家竹久夢二の作品を日本橋Art.jpにてweb展覧会として皆様にご覧いただけます。
「夢二式美人」「大正の浮世絵師」等様々な呼び名があることからもわかる通り、一時代の新たな美術のあり方を模索した夢二芸術をお楽しみください。
展示作品
作家紹介
【1884年】
9月16日、岡山県邑久郡本庄村に生まれる。本名茂次郎。家業は酒屋。
【1899年】
4月、神戸中学校入学。12月、家事都合により中退、帰郷。
【1900年】
一家で福岡へ転居。
【1901年】
7月、家出して上京。苦学。
【1903年】
9月、早稲田実業学校に入学。
【1906年】
「中学世界」にコマ絵「筒井筒」1等入選し、初めて「夢二」と著名する。早稲田実業学校専攻科を中退。
【1907年】
1月、岸たまきと結婚。4月読売新聞社入社。時事スケッチを掲載する。
【1909年】
5月、岸たまきと協議離婚。12月最初の著書「夢二画集 春の巻」発刊。以後多くの出版に着手。
【1912年】
11月、京都府立図書館において、第1回夢二作品展覧会開催。
【1914年】
10月、日本橋呉服町に「港屋」開店。笠井彦乃と知り合い、後に結ばれる。
【1916年】
4月、初めてセノオ楽譜を装ていする。以後、270余のセノオ楽譜の装ていをする。
【1918年】
4月、京都府立図書館で第2回夢二叙情画展覧会開催。9月「宵待草」が出版され、全国に流布。
【1920年】
1月彦乃、御茶の水順天堂医院にて永眠。春、「長崎十二景」完成。黒猫シリーズを制作。
【1921年】
7月、モデルのお葉と渋谷に所帯を持つ。冬「女十題」完成。
【1923年】
9月、関東大震災。これにより恩地幸四郎らと共に企画した「どんたく図案社」は実現寸前に潰滅。
【1925年】
「婦人グラフ」に表紙や口絵をはじめる。大正15年まで続く。当時の夢二人気にあやかって、これらの雑誌は飛ぶように売れた。12月杉沢村にアトリエ付新居「少年山荘」完成。転居。
【1931年】
榛名山美術研究所建設の準備を進める。外遊を決意する。5月アメリカへ向かう。
【1932年】
9月、アメリカより渡欧。欧州各地を歩く。
【1933年】
9月、神戸帰港。11月台湾に行くが、体調を悪化させ帰国、病臥。
【1934年】
9月1日、長野県の富士見高原療養所で「ありがとう」を最後の言葉に永眠。雑司ヶ谷墓地に埋葬。