Yoshizawa Kazuo
1954年 神奈川県生まれ 小田原市在住
1984年 上野の森美術館日本画大賞展入選
1986年 東京セントラル美術館日本画大賞展入選
1987年 ブロードウェイ新人賞2席入賞
1991年 フランスに遊学
1993年 さだまさし20周年記念アルバム「逢いみての」ジャケット画制作
1997年 高等学校教科書「国語Ⅰ」(東京書籍)表紙画制作
1998年 高等学校教科書「国語Ⅱ」(東京書籍)表紙画制作
2003年 小田原駅アークロードのステンドグラス原画制作
2004年 高等学校教科書「精選現代文」「新編現代文」(東京書籍)表紙画制作
2015年 小田原駅地下街 HaRuNe 階段アート作品提供
2017年 「芳澤一夫~具象と抽象の間で~」3月-6月 箱根・芦ノ湖成川美術館
実は、絵を画く、絵描きになるということを、小学校の卒業文集に書いているんですよ。その後、芸大受験したが合格はしませんでした。
浪人時代は、解体業とか、色々なアルバイトもしていたのですが、東京では何とか生活できてしまうのです。
それで、こんなことをしていてはダメだと思って、育った小田原に戻り、独学で学びながらコンクールへ出展するようになりました。
入選落選を繰り返しているうちに、働きながら、28歳で結婚。29歳で、デザイン会社に入社しました。絵描きだけでは、食っていけないので、
それなりの覚悟でした。幸い、デザイン会社では、色々任せてもらえるようになり、地位も給料も上がったのです。
しかし、仕事で、時間が拘束されるのが、きつかったです。仕事が終わってから、自宅に帰宅するのが、深夜になることも良くありました。
その時間から、コンクールに出す作品や大作を描いていました。周りの人から、「いつ描いているんだ?」と、しばしば聞かれました。
今、考えても、自分は、それくらい描いていたのだと思います。
四十年程前に、公募展に出品した作品の麻布をコラージュしてできた作品は、2017年に「希望の木」として成川美術館の展覧会に出品された。
随分と長い時の経過が懐かしくもあり、新しい作品に生まれ変わったことに感動している自分がいる。と書かれている。
コンクールに初めて入選したのが24歳の時。嬉しかったですね。最初から、賞を獲るつもりでしたから。画いた作品を写真で撮り納めておくのに、
カメラを、すぐに買いにいったりしたのです。
どうして、それができたのかは、まず、周りの人に恵まれていたこと。そして、自分の中で、絵描きになるという意志は、
全然ぶれていなかったことです。絵が描けないなら、働いている意味は無いというので、会社には、2回辞表を出しました。
会社は、「自由にやっていいから、働いていてくれ。」と言ってくれたのです。もちろん、すぐに、状況が変わることはありませんでしたが、
30歳を過ぎてから、「芳澤というのは、頑張っているんだな」と、家族、親戚、友人、会社も分かってくれるようになりました。
僕は、東京芸大の試験は、4回受けて合格しませんでした。東京芸大というのは、3浪4浪は当たり前というところですけれど。21歳の頃から、
油彩から日本画に転向したのです。そうすると、油は木炭でデッサンしてきたのが、日本画は鉛筆でデッサンするので、
その差があって無理かなと思い、芸大を諦めました。それに、自分では、デッサン力は、誰にも負けないと思っていましたが、周りの人間で、
明らかに自分よりデッサン力が弱いと思った人間が合格をしていく中で、芸大に入る目標を失ったんです。
当時、油彩を卒業するのが40人いたとして、みんなが芸術家になるわけではないのです。絵描きとしてプロで食っている人は、まずいないです。
もちろん、学校の先生や絵画教室の先生を含めれば、それなりにいることはいます。自分は、第一線で活躍しているとは、まだまだ言えませんが、「絵描き」ですと言っても嘘ではないくらいに、やってきています。
どんな職業であれ、それが、芸術家と呼ばれるような人であれ、数学者であれ、山中さんのようなノーベル賞を取るような科学者であれ、
自分のやっていることがお金になるとかならないとかということは、考えていないと思います。
そこには、使命感というか、宿業、運命みたいなものがあるのです。その使命感みたいなものがある人が、他の人にはできないことをやるんです。
経済環境、家族の反対など、障害は色々とあるけれど、そこでやめてしまう人はそれまでの人間。何があっても、やる人はやる。
自分は、そういう意味で、先ほども言いましたが、ぶれなかった。絵描きになるという意志を捨てたことはないです。
だから、「無理かな、諦めよう」と思ったことは一度もない。さすがに、この年になると、ふと、自分には才能が無いのかなと思うことはあります。
偉そうなことを言うようですが、絵描きとは、かくあるべきという価値観が既に確立しているのです。
レオナルド ダ・ヴィンチの最後の晩餐のレベルを自分があるべき姿だと思っているから、「自分には無理かな?」と考えるのです。
こんなことを若い時から、言っているから、芳澤は、大風呂敷を広げると言われるのですね。ただ、こういう絵を描きたいという希望はあります。
そこについては、ぶれていないのです。
出世したいとか、現実世界で競争したいという希望ではなく、「こういう生き方をしたい、こういう絵を画きたい!」という希望はあるのです。
それに向かって一所懸命やっているのですが、「無理かもしれないな」という絶望に、時々、襲われます。
パン画という言葉があります。売るために画く。食べるために画く。侮蔑的な言葉です。職業画家の事ですが、大先生方はバカにします。
僕もそう思っていました。でも、みんなパン画じゃないかとも、思っています。例えば、ゴッホだと、弟のテオドルスが画商で、
売るために描いてはいたけれど、目的は売ることが100%ではなかった。売りたいけれど、それに合わせて描いていたわけではない。
売ることに合わせて描いている人を、パン画ということになるものです。
純粋に、自分の芸術性を求めて、こういう絵を描きたいということを目指しているのが、本当の芸術家だと思います。
僕が憧れているのはそこなんです。
2018.01.08 Monday
日本画家の芳澤一夫画伯に会ってきました ― 前編
WASHI PAPER 「和紙はお好き?」のブログ より 抜粋
芳澤一夫
売るために描いてはいたけれど、目的は売ることが100%ではなかった。売りたいけれど、それに合わせて描いていたわけではない。